忘れられない女(ひと) 1月8日
オトメツバキ / ツバキ科ツバキ属,常緑低木、八重咲きの椿。花弁が多く花心がない。葉はヤブ椿に比べて小さい。
▼ あの大韓航空機爆破事件を実行した金賢姫(キム・ヒョンヒ)が特赦を受けた後、二冊の自叙伝を書き、その後、どうしてももう1冊書きたいと申し出たのがが「忘れられない女(ひと)〜李恩恵先生との二十ヶ月〜」<文春文庫>である。拉致問題が毎日報じられている昨今、李恩恵美先生が北朝鮮に拉致された田口八重子さんであることは多くの人に認識されているだろう。乙女椿を眺めていると、「忘れられない女」の中で描かれている、招待所で起居を共にした二人の風景を思い起こす。以下はその記述から・・・・
▼【先生と私は山で出会い、山で生活し、そして山で別れた。人里離れた深い山中の山賊の砦と変わりない招待所で彼女と一年あまりを過ごしながら、私たちはほとんど毎日、山の小道を行軍した。当時の日程表には"行軍″と書かれてはいたが、じつは通常の授業で疲れた頭を休めるための運動、つまり散策にすぎなかった。歩いて疲れると草原に寝そべって空のちぎれ雲を眺めたり、日が沈むころには鼻唄を歌いながら四つ葉のクローバー探しに熱中したこともあった。のどかな春になれば、彼女は名も知らぬ草花を摘み、私の指に合わせて茎を巻いて、花の指輪を作ってはめてくれたこともあった。「かわいいね。花の指輪は、派手な花よりこんな名前もないような草花のほうがぴったりするのよ」
李恩恵先生は5歳ほど年上だったが、私よりもはるかに純粋な感情を見せることがあった。彼女のそんなところが、私は好きだった。私たちは花の指輪をはめ手を取り合い、鼻唄を歌いながら招待所に戻ったり、ある時は招待所まで息せき切って走ってきて、食事係のおばさんに花の指輪を見せびらしながら、「どう?」と自慢したこともある。「チッチッ、いつになったらわかるんだろうねえ・・・。まだ子供のままだよ・・・」おばさんは舌打ちして私をたしなめながらも、指輪を自分の指にはめてみて手を差し出したので、きゃっきゃっと笑ってしまった。・・・】
▼【彼女は酒に酔うと招待所の窓の外を眺め「うちの子供はいま何歳かしら?」と言いながら指折り数え、何も知れずに連れてこられた身の上を嘆いた。あるときには見るのもかわいそうなくらい悲嘆にくれ、悲しみ泣くこともあったが、そんなとき私は彼女の心をなだめようと一生懸命気遣った。
しかし、私は恩恵先生の哀しみを完全に理解するにはあまりにも若すぎた。革命性・思想性の強化に明け暮れて育った分別もつかない娘だったので、私にできることといえば、せいぜい彼女の気分をなだめて涙をとめさせようと努力するくらいのことしかなかった。
彼女の身の上は一人の人間として気の毒とは思ったが、わが民族の分断に重大な責任のある日本人が、統一のために一人くらい犠牲になることは甘受すべきだと考えていた。
李恩恵の問題に関しては、常に正しくて賢明なる党が、よく考えた末に指示したことであろうと考えていた。・・・・彼女はいやだという私をつかまえ、二人だけでいたいと言い、加藤登紀子の歌のテープをかけて、涙をこぼしはじめた。
「玉ちゃん、私、泣きたくてこうするの。だからわかって。泣いてもいい?あの曲を聴くと私の過去がよみがえるの」
恩恵先生は言葉を続けられずに、初めからただ泣くばかりであった。そんなとき私は当惑して、本当にどうしてよいかわからなかった。果物でもむいてあげ、お菓子を持ってきて彼女をなぐさめようとしたり、いろいろ手を尽くしてみたが、むだだった。
そうするうちに、ふと<どうしてわたしがこんなわずらわしいなぐさめ役を負わされなければならないのか>と腹を立てたりもしたが、恩恵先生をなぐさめることもやはり革命の任務の一部であると考え、ない知恵を絞り出し、下手なジョークを交えながら何とか雰囲気を変えようともしてみた。
彼女はいまもどこかの招待所に監禁され、酒に酔いながら、故郷と家族を懐かしみ、涙を流しているのかもしれないと考えると、胸が痛む。】
▼金賢姫を妹のように溺愛し心の襞までさらけだした田口さんと、そんな彼女の扱いに戸惑いながらその純情さに引かれていった金賢姫。二人の乙女の物語は、その後のそれぞれの強烈な運命を思うとさらにはげしい光を放ってくる。
▼それにしても、こんな夜中に、なぜ急にだらだらと金賢姫の文章の模写などをはじめているのか、われながら自分の奇行にいつもながら戸惑う。しかし、この気分の訳を考えてみると、核開発問題をめぐる北朝鮮の昨今の苛烈な言動に刺激を受けているからだろう。
金正日の米国への剥き出しの敵意は、異常な羨望への裏返しに見える。
外国製品に囲まれた部屋でCNNを見ながら湧き出る妄想とともに次の一手を考える将軍様の仮想現実シンドローム・・・社会主義も資本主義も、一握りの権力の掌中におさまり仮想現実化してしまったとき、終末への道程がはじまる。
▼きな臭い国家間のチキンレースを注視しながらも、人生を無残にも引きちぎられた二人の乙女のことは忘れないでいたい。
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