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  憎悪もいつかは溶けていく      1月9日

▼広島のことを話したい。東京で、広島の原爆のことを語れば、「またか」という気だるい空気を感じる。退屈な話をまたはじめるのか、という表情をいやというほど東京でみた。反核運動の話をすれば「君は左翼か」そんな声を荒げる人が、残念ながら見識ある地位にいる人の中にまた増えはじめているのを肌で感じている。
▼山口県に生まれた。被爆した人が身近にいた。1996年から3年間、広島で働く機会があり、再び被爆の惨禍にあった人達と交流した。ヒロシマは今も身近にある。
▼原爆炸裂直下にはかつて猿楽町という町並みが広がっていた。ひょんなことから猿楽町の住人の一人、田辺雅章さんと近しくなった。今は原爆ドームとなった産業奨励館に隣接するお屋敷のぼっちゃんだった。田辺さんはその日、疎開していて町にはいなかった。父はいつものように軍馬に乗って町の北側にある錬兵所に通勤していった。残された母と妹が屋敷にいた。月曜日の朝、様々な商店が軒を連ねる猿楽町。ウラン型原子爆弾という核兵器が世界で初めて投下されたその下には、ごく普通の市民生活があったのだ。
▼田辺さんの屋敷跡は、原爆ドームの敷地内にあり、入ることはできない。母と妹は今も瓦礫の下に埋もれている。広島にいた3年間、田辺さんが猿楽町の町並みをコンピュータ・グラフイックの中に蘇らそうという運動をみてきた。各家の正確な間取り、商店の店先に並ぶ品物、当時、町を連呼して歩いたモノ売りの声まで再現しようとする執念の中に、全てを一瞬にして奪い取ったものへの強い憤りを感じる。この精微な再現作業が田辺さんたち生き残った住民たちの「反核運動」だった。
▼8月6日、原爆投下直後の広島の町に、米兵の死体が吊るされていた。当時、取調べが行なわれていた産業奨励館(原爆ドーム)に向かう途上、被爆した捕虜ではないか、と考えられる。皆が石を投げ体は血だらけだった。この日、路上の一人の米兵に集中した憎しみの量は計り知れない。
▼広島の人々は、どのようにして原爆を投下した米国への憎悪を溶かしていったのだろうか。今振り返ると、もっとその溶解のプロセスを取材すべきだった。1996年、私が接した被爆者の全てが米国への憎しみを超え、二度と核兵器を使用してはいけないという「反核」の意志を示し、なにがあっても戦争はいけない、という「非戦」への強い決意を持っていた。強い反米の情が反戦の思いに変わっていったプロセスにもっと肉薄すべきだった。
▼再び2003年の日本。テレビは毎日、北朝鮮の異様な反米集会や反米キャンペーンを映し出す。その姿は戦時中の日本の姿と重なる。今ある北朝鮮の人々の憎悪はどのようにして溶けていくのだろうか。「お前は左翼か、反米か」と激昂した先輩に返しつづけたい。「私は日本の市民が60年かかってたどりついた"反核・反戦"の日常を支持します。」

「北であれ南であれ、かつての日本であれ、汚れのない国家はない。いつでも被害者から加害者に反転しうる。国家や民族は自己同一化する対象ではない。むしろ今、個人としてどう国家と向き合うかが問われている」 (姜尚中)
                          
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