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 ざわざわ                     1月23日


大寒を過ぎると、殺風景な冬の公園に何か「ざわざわ」という雰囲気が漂うような気がする。春に向かって何かが一斉に動きはじめる気配である。
植物はどのようにして季節を感じ取るのだろうか。植物の体の中に体内時計があり温度変化によりスイッチがオン・オフされる、と漠然と思ってはいるが、こうして公園を歩いていると春の気配は、植物の中にあるのではなく、植物どおしの間の複雑な空気の中に漂っているのだと思う。
植物のコミュニケーション能力について有名なエピソードがある。樹木に害虫が寄生した時、樹木はどういう反応をするのか、実験した植物学者の話である。彼らは約7千匹の害虫を用意し、ハンノキやヤナギにはわせた。害虫は葉を食い始めたが、不思議なことにそのまま葉を食い尽くすことはなかった。それどころか虫たちの中にはやがて葉を食べなくなり、餓死するものもでてきた。
葉を調べてみると、そのなかに始めはなかったアルカロイドという化学物質が生成されていた。これは昆虫や動物に対して毒性を示す化学物質である。樹木達は自分の体内で化学物質を作り出し、防衛していたのだ.
▼話はここにとどまらない。驚いたことに、その近くにあった同じ種類の樹木達も、突然、アルカロイドを作り始め、防衛をはじめていた。植物学者は、地中の根を通して害虫に侵された木から化学的な反応が伝達されたと考えたが、どうもそうではない。おそらく被害を受けた木から何らかの化学物質が発散され、これがj空気で運ばれ近くの木々に警告となったのではないかと推測している。(参考:橋本健博士「植物には心がある」)
▼生命進化の先頭に立つのは植物である。水と太陽のエネルギーだけで有機物を作り出すというまだ人類にはできない技術を持つ彼らが、分子レベルで我々の想像を遥かに超える情報伝達のテクノロジーーを持っているとしてもふしぎではない。春への対応は、一つ一つの植物が天候を察知するだけではなく、植物どおしのコミュニケーションによってもたらされているのではないか。
▼「ざわざわ」という空気がもたらす次への予感、これは我々人間界にもある。たとえばテレビ、十社近い各社の夕方のニュースはなぜ皆同じようなオーダーになるのだろうか。大きなニュースがない日にも午後くらいからなにやら「ざわざわ」と各局おたがい空気を察知しながら同じ価値観をしぼりだしていく。その流れからはずれたところからぽっと入って来れば、全くちがう発想ができるのだろうが、同じ時間の流れを共有していると、集団心理は同じ発想へと収斂されていく。

▼隣を察知して判断し、さらに隣を意識する。そのあうんの呼吸のような空気の流れが、生命共通の情報伝達としてあるのではないか。ちょうど、指揮者のいない即興音楽のようなものが自然界や集団社会に流れているのではないか・・・・・急に春の気配をかもし出し「ざわざわ」しはじめた公園の中でそんなことを考えている。

 ▼       陽春              萩原朔太郎
 ああ、春は遠くからけぶって来る、
 ぽっくりふくらんだ柳の芽の下に、
 やさしいくちびるをさしよせ
 おとめのくちづけを吸い込むみたさに、
 春は遠くからゴム輪のくるまにのって来る。
 ぼんやりした景色のなかで、
 白いくるまやさんの足はいそげども、
 ゆくゆく車輪がさかさにまわり、
 しだに梶棒が地面をはなれ出し、 
 おまけにお客さまの腰がへんにふらふらとして、
 これではとてもあぶなそうなと、
 とんでもない時に春がまっしろの欠伸をする。

                          
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