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 我々は宇宙的誕生の時代にさしかかっている
                 (1)       2月1日

ハツカリ(初雁) / ツバキ科。2月、練馬区大泉学園にある植物学者・牧野富太郎の記念庭園で花開いていた。

▼「花一輪に宇宙が宿る」 法華経の言葉だったか、牧野富太郎博士の庭園に入ると決まって思い出すフレーズである。そう言って訳知り顔に庭園の表層をなぜて歩く中年の姿を、天空から俯瞰し見ている博士はこう呟くだろう。「また素人がやってきた。花の真の目的を嘆美せずに、こいつも、ただその表面に現れている美を楽しむだけで通り過ぎる。花に言わせれば、誠に迷惑至極な話だ・・・」
▼自宅と同じ区内に、牧野富太郎博士の記念庭園があるのは幸運である。文久2年(1862年)に高知に生まれ、昭和32年(1957年)に95歳で亡くなった牧野博士は独学で植物学を究め、世界的な学者となり「植物学の父」と言われている。博士が晩年を過ごした練馬の自宅はその後もそのままに保存され、その庭も記念庭園として大切に生かされている。牧野博士は、全国各地、時には台湾にまで足を伸ばし標本を集め徹底して観察した。書物に囲まれた狭い部屋もそのまま保存されている。ここで博士は1600種類の新種の植物に名前を与えた。
▼牧野博士の庭園は決して広くはないが、中に入ると一つの宇宙があるといつも思う。いや、宇宙というよりここは、牧野博士の脳の中ではないか、その思想が庭園という形を借りり、今も息づいているのではないか。アンズ、ホオノキ、アオギリ、カリン・・・それぞれの木が無造作に植えられているようであるが、その位置関係にまでも精緻な計算があるようにも見える・・・そんな漠とした情感のみで歩く凡百の姿などは科学者である牧野博士からみれば屁のような存在であろう。
▼博士が昭和24年に書いたものにこんな記述がある。
<花は、率直にいえば生殖器である。有名な蘭学者の宇田川先生は、彼の著『植学啓源』に、「花は動物の陰処の如し、生産蕃息の資て始まる所なり」と書いておられる。すなわち花は誠に美麗で、且つ趣味に富んだ生殖器であって、動物の醜い生殖器とは雲泥の差があり、とても比べものにはならない。そして見たところは一点もこれなく、まったく美点に充ち満ちている。まず花弁の色がわが眼を惹きつける、花香がわが鼻を撲つ。なお仔細に注意すると、花の形でもガクでも、注意に値せぬものはほとんどない。
▼この花は、種を生ずるために存在している器官である。もし種子を生ずる必要がなかったならば、花はまったく無用の長物で、植物の上には現れなかったであろう。そしてその花形、花色、雌雄蕊の機能は種子を作る花の構えであり、花の天から受け得た役目である。ゆえに植物には花のないものはなく、もしも花がなければ、花に代わるべき器官があって生殖を司っている。
▼植物にはなにゆえに種子が必要か、それは言わずと知れた子孫を継ぐ根源であるからである。この根源があればこそ、植物の種属は絶えることがなく地球の存する限り続くであろう。そしてこの種子を保護しているものが、果実である。
▼草でも木でも最も勇敢に自分の子孫を継ぎ、自分の種族を絶やさぬことに全力を注いでいる。だからいつまでも植物が地上に生活し、けっして絶滅することがない。これは動物も同じことであり、人間もおなじことであって、なんら違ったことはない。この点、上等下等の生物みな同権である。そして人間の子を生むは前記のとおり草木と同様、わが種族を後代へ伝えて断やさぬためであって、別に特別な意味はない。子を産まなければ種属はついに絶えてしまうにきまっている。つまりわれらは、続かす種属の中継ぎ役をしてこの世に生きているわけだ。・・・・・>
(牧野富太郎「植物知識」)

▼宇宙が限りなく膨張していくように、生命もその遺伝子を引き継ぎながら無限に広がっていこうとしている。この宇宙と生命の併走の中で、一瞬咲く花もそれぞれが意味のある役割を果たしている、そして我々も生命の中継ぎ役としてこの世にいるわけだ・・・・そんなことをベンチに座り考える。やはりこの庭は牧野博士の頭脳の中に間違いなく、その環境が私のような素人にも「花一輪に宇宙や宿る」などとと呟かせているのだ。

▼地上で暢気に妄想を膨らませていた週末、宇宙ではとんだもない大惨事が起きていた。スペースシャトル・コロンビア号墜落のニュースが飛び込んできた。・・・・<つづく>
                          2003年2月1日
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