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  痛い            3月22日

▼ 5年前、広島での勤務を終えることになった時、どうしても会っておきたい人がいた。
▼日本海の小さな町、川沿いの郵便ポストの前でYさんは待っていた。のどかな川の風景を見て「静かでいいところですね。」と言うと、「この川も荒れることがあります。」という答えが返ってきた。それが今も忘れられない。川沿いのYさんの自宅で半日話に耳を傾けた。

▼1945年8月のその朝、Yさんは明けで広島郊外にあった寮に戻って二段ベットの中に潜り込んでいた。当時17歳、広島電鉄の市内電車の運転士だった。戦時中、人手不足の会社は急遽、運転士に女性や少年を採用した。Yさんもその一人だった。
▼深い眠りをぶち壊した轟音とともに、全てのものが崩れ落ち、Yさんは闇の中に埋もれた。鼻のの中に土が吹き込み息ができなかった。噎せ返る苦しさの中に一点の光を見た。それを目指して必死に体を動かして闇から抜け出した。ようやく体を起こして見た風景に慄然とした。広島の町が消えていた。何もかもが崩れて見渡すかぎりの荒野が広がっていた。まだ、火の手も上がっていなかった。喪失の風景の中にただひとつ、巨大なキノコ雲が悪魔のように天に向かっていた。
▼キノコ雲に向かって歩いた。その方向に広島電鉄があった。皆のことが気になった。その時、市内で見た地獄絵をYさんは淡々と話し始めた。他人にこの話をするのは半世紀を経て初めてのことだった。市内に焼け焦げた市内電車があった。その運転席にあった白骨、同僚だと思ったが目をつぶって通り過ぎた。焼け焦げた同僚たちの供養も充分にできなかったことが今もYさんを苦しめている。
▼長く、苦しいYさんの話は、一つ一つが突き刺すような痛さを持っていた。戦後、すぐに広島を離れた。20年後、息子の結婚式で行くまで広島の町に入ることもできなかった。被爆のことは伏せてきた。忘れたいと思った。しかし、半世紀を経ても、痛みは消えなかった。もっともつらいことは悪夢を見ることである。白骨の同僚が出てきて「なぜ助けなかった」と責め立てる夢を今も見ている。
▼半世紀を経て、広島市があらためて被爆体験記を募集しているのを知り、初めて自らの体験を文章にした。転勤を前にもう一度、体験記を読んでおこうと市役所を訪ねた時、たまたまこのYさんの文章に出会った。いまも見る悪夢のこと、そして戦後、駅前で反戦を訴えるビラを巻こうと思ったこともあったが会社に変な目でみられないか、とそれもできなかった後悔・・・など率直な文章にひきつけられた。話をきかせてもらえないか、という電話をかけた時、Yさんは、「虫の知らせでしょうか。きのう、また同僚の夢をみたんです。」と言った。
▼「テレビで見た阪神大震災の映像は痛かったです。」とYさんは言った。あの日、鼻の穴を土でふさがれ、闇の隙間から抜けだす時の感覚をはっきりと思い出した、という。傷ついた心は一生ふさがれない。時折、何気なく見る映像の中にも一気にどん底に突き落とされるイメージを感じることがあるのだ、とYさんは語った。
Yさんは押入れの中から当時の写真を探し出してきた。そこには、大きな帽子をかぶり、だぶだぶの制服を着たあどけない笑顔があった。息子と同じ年齢のごく普通の少年の笑顔があった。

▼今朝、テレビに映し出されたバグダッド空爆の映像を見て、すぐにYさんのことを思った。映像には立ち込めるキノコ雲が映し出されていた。空爆は、フセイン政権を心理的に追い込むための「衝撃と恐怖」作戦という。なんと、傲慢な名前をつけるのだろうか。この「衝撃と恐怖」はバグダッド市内のシェルターで身を寄せあう市民の心に鮮烈な傷を与えているはずだ。たとえ体は傷つかなくても、子供たちはこの心の傷に一生苦しめられていく。アメリカ軍は「民間人は傷つけない」というが、心に突き刺さった「衝撃と恐怖」は決して癒えない。この映像を見たYさんが、また悪夢にうなされふさぎこんでいく様子を思うと、こちらの心が痛い。痛いのである。
        

                     2003年3月22日                  
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