桜の樹の下には      4月3日
    オオシマザクラ(大島桜)/バラ科の落葉高木。本州の房総半島、伊豆半島、伊豆七島に分布し、高さは10メートルになる。花は白色で径4センチと大きく、芳香がある。葉は大きく、若葉は塩漬けにして桜餅を包むのに使う。里桜や染井吉野はこの大島桜を一方の親として交配したものである。 
   ▼高木きよ子氏の桜という著作の中に、こんな記述がある。、「ほとんどの桜はかたまって咲く。花が一つだけ独立して咲かない。例えば梅の花や桃の花は枝に一つずつ花をつける。ところが桜は房のように  
   束になって咲く。一つ一つの花はさほど大きくないのに豪華に見えるのはそのためである。 
    ・・・・日本人の桜に対する特別な感情は、この桜の花の形態にひかれるところにもその原因の一つがあるかもしれない。個よりも群れを好む日本人にとって、独立して大きな花を咲かせる花よりも、小さくても身を寄せ合って咲く花に無意識に心が向くのかもしれない。 
   たとえば向日葵の花のように独立して一本立ちしている花などは心を寄せる対象になりにくいのではないか。ゴッホが聞いたら何というかわからないが、向日葵は、広大な果てしも 
   野の中で燦々と太陽を浴びて独り 立ち 
   しているところに逞しさとともに生きる 
   基盤があり、それゆえに美しいのである。 
    それに対して、桜のように大木であっても細かい花を大量につけている樹は、それに心理的に寄りかかることが出来、大勢の中の一人という感覚をもつのに格好の花なのである」 
    
   ▼さらに記述は、桜の樹の下で繰り広げられる花見の光景にも及び、一人では気恥ずかしくてできないことを花見の席で「みんなで渡れば怖くない」という言葉のように、集団になると羽目をはずす日本人の考察に及んで面白い。 
   ▼確かに、桜の花は一輪での存在を主張しない。一輪では花弁はハラハラと散っていきなんとも頼りない。しかしそれも俯瞰して遠景で見れば、見事な桜吹雪となるのである。その集団の美しさと儚さに日本人は魅せられるのか、ついつい皆で集まり宴を始める。 
     
   ▼いつか、ぜひとも観てみたい桜の樹がある。その樹は、中国雲南山岳地帯から支脈となりひろがるナガ高地にある。東にはビルマ、西はインド・アッサム、南端にはインパールの平原がある。 
   ▼1944年、当時ビルマ地方に駐留していた日本軍がビルマ防衛の名目でインパール作戦を決行した。劣悪のジャングルを補給もなく彷徨い進んだ数万もの日本軍は、この平原で英米連合軍との壮絶な戦いをし、全滅した。その戦いの無謀さについては、戦後、様々に論じられてきたが、日本軍がたどり着いたナガ高地がどんなところだったのかはあまり語られてこなかった。 
   ▼1977年、「秘境ナガ高地探検」という本が出版された。「日本人の源流を求めて」という副題に魅せられて手に入れた。そこで、書かれている場所があのインパールの戦いの現場だと知りさらに興味が沸いて、作者の森田勇造氏を訪ねた。森田氏はこの地が我々日本人のルーツなのだ、と今回の旅で実感したと力説した。納豆やもち米を主体とした食生活、藁葺きの屋根の鋤き方、石の精霊、村の祭り、相撲大会、なにより日本人とそっくりな風貌、まだチベットなどにも中々入れない時代だった。森田さんが披露してくれた様々な写真に胸ときめいた。さらに、森田さんは、こう言った。「ナガ高地には桜の樹があるんです。ケジェと呼ばれる山桜です。12月、花を咲かせます。」 
   ▼私的な話になるが、父には二人の兄がおり、二番目の兄がインパール作戦で亡くなった。終戦直後、戦友が訪ねてきて、その最期を父に話してくれたという。ジャングルの中でマラリアに冒され、皆に自分のことはかまわないから先に行ってくれ、うずくまったという。 
    伯父がやがてたどり着くはずであったナガ高地は、戦争という言葉さえなければ、日本の農村ののどかな風景を思い起こす楽園ではなかったのか。 
   ▼1944年4月、日本軍はこの楽園に吸い込まれるようにやってきた。皆、疲れ果てていた。ナガ高地の村にこんな歌が残っている。 
    「ある日、村の男に似た日本の兵隊が村にやってきた。次から次に、たくさんの日本の兵隊がやってきた。みんな腹をすかしていた。 
    私たちは米や豚や野菜をあげた。充分に食べた日本の兵隊は、手を振って笑いながらコヒマに向かって歩いた。 
    コヒマでは大きな戦いがあったそうだ。やがて、日本の兵隊は戦う武器も、食べるものもなく、疲れ、傷つき私たちの村に帰ってきた。 
    私たちはまた食物を与えた。傷つき、疲れ果てた日本の兵隊は、何も語らず、笑うこともなく、ただ食べることに夢中だった。 
    日本の兵隊は、東のジャングルに向かって歩いた。私たちは食物を与え、ジャングルまで見送った。その後、日本の兵隊はやってこない。日本の兵隊はどこへ行ったのだろう。」 
    
   ▼さらに森田氏を驚かせたのは、村人の中に日本語を話せる長老がいたことである。 
   『 村人はなぜか私のことをさんちょうと呼ぶ。初めは意味がわからなかったが、通訳兼世話役のニベロさんによると、日本人が上役を呼ぶのによく使っていたということがわかった。とすれば軍隊用語である。彼らが使うさんちょうははんちょうの覚え間違いだろう。青少年時代にこの言葉を覚えた村の人たちは、まるでミスターと同じように使っているのだ。 
    「私は日本軍が作った学校に通ったので、日本語はまだ覚えています」 
   通訳のニベロさんは英語でいった。日本軍が駐留していた三十五年前は十六歳である。 
    「コメありますか。モミありますか。ニワトリありますか。おはよう、ありがとう・・・・」 
   彼は笑いながら日本語を話す。そんちょう、ぶらくちょう、くつ、くつしたなどの日本語も覚えていた。文字のない世界で育っているせいで記憶力がよいのか、記憶術があるのか、彼だけでなく村人の多くが、一つや二つ、日本語の単語を覚えていた。なかには「さくら、さくら、やよい、やよい、・・・」と歌う人もいて、私はyれしさと驚きがごちゃまぜになって大声笑ってしまった。 
    長くてもわずか数ヶ月の日本語学校だったはずである。いったいどんな日本人がどのようにして教え、彼らはどうして今まで覚えているのだろう。 
    私は帰国後、日本の外務省のアジア課にこのことを話し、いったい日本軍が南ナガ高地のペックやチザミに何ヶ月間学校を開いたのか質問したが、知っている人はなく、資料もなかった。・・』 
          (森田勇造著「秘境ナガ高地探検記」より) 
    
   ▼ある日突然、得体の知れない日本人と英米人が大勢やってきて、自分たちの村を戦場としてしまう、傲慢さ。その異常事態の中で設立されたらしい幻の日本人学校の存在に興味を持ち、調べたが、もう一度現地に行く以外に知る術はなかった。その後、ナガ高地は民族紛争が激化し取材に入ることもできなくなり、二十年が過ぎた。森田さんが出会った日本語を話す長老たちも 
   他界しているだろう。死までのわずか数ヶ月、日本語教育に情熱を注いだ日本兵がいた、という事実も忘れられようとしている・・・・。 
    
   ▼ナガ高地に咲く桜を見ることもなく、日本兵は全滅した。愚かな作戦のために壮絶な死を遂げた日本人の集団、その惨劇の数ヶ月後、天空を真っ白に染めた満開の桜、そして桜吹雪、地面に積もる無数の花弁・・・一度、ナガ高地に咲き乱れるという桜を訪ねてみたい。 
    
     
   桜の樹の下には屍体が埋まっている! 
   これは信じていいことなんだよ。 
   何故って、桜の花があんなにも 
   見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。 
   俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。 
   しかしいま、やっとわかるときが来た。 
   桜の樹の下には屍体が埋まっている。 
   これは信じていいことだ。・・・・・ 
           (梶井基次郎)
    
           |