シダレザクラの下で 2003年 4月4日
シダレザクラ/バラ科の落葉高木。エドヒガンの変種。写真のシダレザクラは光が丘公園の管理事務所の敷地にある。ソメイヨシノの下で賑やかな花見が行なわれる中、この樹の下に寝転がるのは自分だけ。異端の幸福を満喫させてくれる樹だ。
▼突然、バグダッドの町に現れたフセインの映像が流されている。人々はシェルターの中に身を潜め、不安と沈黙のうちに日々を過ごしている。その渦中で突然登場したフセインを熱狂的に迎える人々の映像がテレビの画面に映し出される。4対3のフレームに収まった奇妙な映像である。もし、カメラマンがゆっくりとズームバックし徐々に視野を広げていけば、取り巻きのバース党員の群れの外には白けた目で輪を見つめる人々がいて、その外には人気のない空虚な町があり、さらにその外には暗い部屋の窓の隙間から外を見つめる瞳があり、さらに地中には怯えた家族が肩を寄せ合っているにちがいない。
▼フセインは何を考えているのだろうか。再び地中に消えた男は、おそらく自分の生死を曖昧にしておくことで、民衆の心に「フセインはいつ戻ってくるかもしれない」という永遠の恐怖を植えつけておこうという魂胆ではないか。
▼テレビの前の戦況に見入る日々がつづく。いち早く戦争支持を表明した日本政府の立場からすればなんとか米英軍勝利でこの戦争の幕引きをして日本も「勝ち組」だ、いち早い支持を打ち出した日本政府の判断は間違っていなかった、という世論を得たいであろう。
政府に近いところで働いている友人のAに電話をする。戦況の不利が伝えられた先週に比べると声は明るい。「まもなくこの戦争は終わる」と断言した。
▼この戦争がもたらすものは、すでに露になっている。アメリカが本気で「自由の帝国」に向かって動き出したこと、それは国連中心主義という秩序とぶつかること、その相克の中で日米同盟がこれまでとは様相を変え始めたこと、アメリカが次々と「敵」を探して世界を彷徨い始めたとき、ただそれに盲従するだけの日本の姿勢は、国際的に孤立する道筋をもたらす。さらに長い眼でみれば、21世紀、世界は紆余曲折の果てに、世界共通価値観の自由主義にいきつくであろう。しかしそれは決して、米国のやろうとする「自由の帝国」からはもたらされない。なぜなら、米国はその背後に絶えず国内の利害関係をひきづっているからである。利他的な自由主義は、国連のような第三者的な機関の成熟によってもたらすほかはない。
▼国連か日米同盟かという二者択一的な考えももはや力をもたない。両者を変化させどう共生させていくかが今後の正念場になる。しかしAの話からは、イラク戦争後、相当の困難が予想される戦後復興について、日本がどうかかわるのか、道筋は見えてこない。事はそう簡単に二者択一では乗り越えられないステージに入ったのだ。このステージを自覚しないと、アメリカは再び、敵を探して彷徨い始め、日本はそれに盲従するというとんでもない未来図ができあがってしまう。
A君へ きょうの君のあかるさが僕は不安だ
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