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  忘却への抵抗            6月21日

 マリーゴールド  / キク科マンジュギク属 原産は中央アメリカ。16世紀にヨーロッパに紹介された。大きくアフリカン・マリーゴールドとフレンチ・マリーゴールドの二つのグループに分かれる。独特のにおいがあり殺虫、殺菌、除草の効果がある。他の植物といっしょに植えると害虫を防ぐ効果がある。花言葉は、悲しみ、嫉妬。

NHK総合テレビのNHKスペシャルがまたすばらしい作品を送り出した。今夜、放送された「マリナ 〜アフガニスタン・少女の悲しみを撮る〜」である。百聞は一見にしかず、手元にテープがありますのでメールいただければお送りします。

▼「アフガニスタンは死と復活の狭間でもがいています・・・」 物語は、アフガニスタンの映画監督セディク・バルマク氏のモノローグから始まる。タリバン体制下、国外に追放され難民生活を送っていたバルマック氏が8年ぶりに帰国しアフガニスタンを舞台に映画の撮影にかかった。その製作の日々を追いながら、映画が上映されるまでを描いたドキュメンタリーである。
▼主人公の少女が、様々な辛い経験を乗り越えて最後に自由を手にいれる・・・・バルマック監督は当初、希望に満ちたラストシーンを持つストーリーを考えていた。タイトルは「虹」としていた。
キャスティングはすべて一般人から選ぶことにし各地の難民キャンプや孤児院を回って配役を考えた。

▼主役のマリナは、監督が3千人近くの孤児に面接した果てにたどり着いた少女だった。監督とマリナのモノローグを軸に、撮影現場の出来事をドキュメンタリーカメラは自然体で追い続ける。
戦争の辛い経験を尋ねると、マリナの目から決まって大粒の涙がこぼれた。ストリートチルドレンをしなから貧困の今と闘うマリナはハツラツとしているとさえ見えた。しかし、戦争の話を尋ねた途端、すべての表情がフリーズし、凍結した暗い表情の中からやがて涙が零れ落ちてくる。その闇の中から滲み出る涙、それがこの映画のすべてでありドキュメンタリーのすべてでもあった。

▼9・11同時多発テロによって露にされたのは、テロの恐怖ではなく、「忘却」の恐怖ではなかったのか。ソ連の侵攻を食い止めたアフガニスタンは、その後も、4半世紀に渡って内戦の中にあり、戦火と飢餓と貧困という混沌に身を晒している。この継続する惨禍に対して国際社会は「忘却」しているかのように視野に入れようとしなかった。その大地に彷徨う、もろげな民衆がいることにまで想像力が及ぼさなかった。そして、拗ねた少年が社会に対して突然の暴挙にでるように、テロは国際社会に「こっちを向け」とばかりに襲いかかった。
▼アメリカはいわば、金ですべてを解決しようとする金満富豪の父親であり、オサマ・ビンラディンは、そんな親に反抗してみせる"歪んだ坊や≠ナある。荒廃したアフガニスタンに入り込んだオサマ・ビンラディンは金にものをいわせ、タリバンの指導者オマルに食い込み、彼らに寄生し、やがて乗っ取った。そのやり口は、父であるアメリカと瓜二つである。そして、火薬を振り上げ騒いで見せると、一瞬なりとも大人たちは自分たちに振り向く、というスリリングなゲームの味も刷り込んだ。大人たちに忘れられた子供たちの稚拙な犯行スタイルだ。
▼痴呆症ではないかと思うほど、次々といろんなものに手をだしては、次の瞬間、忘れてしまい、また別の獲物に向かう父であるアメリカ。父が育ったのはハンバーガー大国、次々と商品を食い散らかす大量消費社会だ。その大国の最も「売れ筋商品」が「自由と民主主義」・・・・・9・11以後の歴史が露にしたのは、この構図だった。
▼すべてを食い散らかし、忘却していく大国の嵐が去った後、消えることなく蓄積されていくもの、
それが「マリナの涙」だ。
 マリナが歌う唯一の歌 「私は兵士 私は兵士 この国の兵士だ 戦争のとき 大砲と銃 虎のように攻撃する 鋭い刀を取り出して ロシア人の首を切った」  ソビエト軍が侵攻していた時代、戦場となった故郷ショマリ平野で歌われていた唄だ。そして2000年、故郷の家は空爆にあい、崩れた壁の下敷きになり二人の姉は死んだ。命からがら、首都カブールにたどりついたマリナの一家を待ち受けていたのは、さらに激しいアメリカ軍の空爆だった。この時の風景は決して消えることなくマリナの涙となって結晶化されている。
▼当初、バルマック監督は、無数の不幸を乗り越えて雑草のように再生していくアフガンの民衆に希望を託して映画「虹」を構想した。しかし、8年目の故国で目にした途絶えることのない無数の涙はそのストーリーを変更することを余儀なくさせた。・・・・とめどなく悲しい映画「マリナ」はこうして生まれた。

▼ドキュメンタリー「マリナ」は、次々と忘却することで膨張する現代の国家、そしてマスコミ、感情を失った高度情報化文明への痛烈な警鐘である。手がけたのは中村直文ディレクター、それを支えたプロデューサーは藤木達弘。二人はアフガン空爆直後から、その空の下の民衆を注視し
続けた。彼らの2年間に渡る「注視」は「忘却」への激しい抵抗である。
 いま、ジャーナリストに一番必要なものは「忘却への抵抗」だと痛感させられた番組だった。
                          2003年6月21日
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