反米と親米 8月4日
キキョウ(桔梗)/キキョウ科キキョウ属の多年草。日本の他、中国、朝鮮半島などの東アジア全域に分布する。根を薬用(咳止めなど)にすることが中国から伝えられ広まったのではないか、といわれている。「万葉集」で山上憶良の歌「秋の七草」に登場する朝貌(あさがお)の花はキキョウではないかといわれている。なぜなら万葉の時代にはアサガオはまだ渡来していなかったから・・・。花言葉は変わらぬ愛、誠実、熱心。青紫の桔梗の花言葉は 「友情」。
▼予想されていたとはいえ、イラクの混乱ぶりが心配だ。バグダッド市内を歩く若き米兵たちには、街行く市民が皆、自分を狙う敵のようにみえているのではないか。米兵襲撃、そして誤射のニュースが報じられるたびに、脅えた兵士の胸の内が痛いほど伝わってくる。
▼強迫神経症に陥った兵士の精神状態はそのまま今のアメリカという国家の精神状態を具現化しているように思う。そんな思いを日本政府に近い人に話す。すると相変わらず彼らは、困り顔で、「そんなことを軽率に言うなよ。」「それでもアメリカを支援するんだ、こういう時だからこそブッシュを支えるんだ。」と言いたげである。思えば、この日米同盟という縛りの前で、自分は随分大人しくなってしまったようだ。出かかった言葉を飲み込んで、黙ってしまうことも多くなった。
▼日米関係を考える時、参考にしているのが、岸田秀氏の、精神分析学から見た日米関係の視点である。1986年に出版された「黒船幻想」(トレブイル社)からその考えを書き写したい。
▼<わたしは、近代日本は精神分裂病の一ケース、アメリカは強迫神経症の一ケースと見れば、それぞれの国家としての行動がよく理解できると考えている。ペリー来航から太平洋戦争を経て現在の貿易摩擦に至るまでの近代百数十年の日米関係は、政治的、経済的要因だけでは説明できず、何よりもまず、病的国家と病的国家との病的関係と見なければならない。
▼このようなわたしの国家観、歴史観は、唯物史観をはじめ一般の常識と矛盾するし、とくにアメリカに関するわたしの精神分析的説明は、アメリカ人なら当然、腹を立て、決して承認しないであろうと考えられるものである。
▼アメリカの国家の起源は、親切に迎えてくれたインディアンを虐殺し、しかも、虐殺者であるピルグリム・フアーザーズを聖者に祭り上げ、虐殺を正当化したことに発し、そのため、他民族の大量虐殺を強迫的に反復するという病的症状を呈するに至り、それが自由と民主主義の名のもとでの対外戦争、対外侵略に表されているという説明なのだから。・・・・・・(略)・・・・・・
▼本書の中に「外的自己」「内的自己」という言葉がよく出てくるが、これはわたしが「日本近代を精神分析する」のなかで用いた用語で、この文章を読んでいない読者のために簡単に説明すると、1853年、ペリーが来航して開国を迫られたことによって日本は、軍事的に到底かなわない欧米諸国を崇拝し、迎合と屈従によって危機に対処し、外的現実に適応しようとする層と、現実適応なんかは考慮せず、ひたすら日本の誇りと独自性を主張しようとする層とに分裂した。前者が外的自己(この場合で言えば、佐幕開国派)、後者が内的自己(この場合で言えば、尊皇攘夷派)である。日本においては、この分裂状態が現在に至るまで、様々な形で(たとえば、内治派と征韓派、政党政府と軍部、保守党政府と左翼陣営、政界と経済界など)つづいているというのが、わたしの説である。このような外的自己と内的自己との分裂は、個人の場合で言えば、まさに精神分裂病であって、近代日本は精神分裂病の一ケースであるという私の見方は、ここから出ている。
▼このような強迫神経症患者と精神分裂病患者とがぶつかってもつれにもつれているのが日米関係であり、そこから脱出するためには、その第一歩として、まずこの事実を両国が認識しなければならないと、わたしは考えている。・・・・・>(岸田秀 K.Dバトラー「黒船幻想」より)
▼ 日本は敗戦によって鬼畜米英の反米から急遽して親米になって、アメリカ一辺倒になった。反米的な心情は一応表面的には否定されたが、時折、深層に渦巻く反米的な心情が頭をもたげたとしか思えない事件が起きる。
「それはまさに神経症の患者が、自分でそんな気持ち、そんな欲望はもっていないと、自分で否定して、その欲望を抑圧しているとき、その欲望が依然として無意識のなかではつづいていて、いろんな症状とかふとした行動とかにあらわれるものとまったく同じメカニズムなわけです。」
▼ 「戦後は、表面は反米ではない形で反米的心情がでていると思うんです。表面的には親米で、アメリカ一辺倒ですが底には戦争中と同じような反米的心情が流れていると思うんです。あるいは、反米ということをはっきりと打ち出している場合も、それはアメリカが帝国主義国家で、日本に軍事基地をもち、アジアの平和を脅かしているからとかの理由があっての反米で、戦争中の反米とは無関係だということになっているわけです。しかし、そのような理由は嘘で、これこそ精神分析で言う合理化の防衛機制ではないか。そういうわけで、戦後は左翼が反米を唱えているわけですが、戦争中の右翼ナショナリストの反米も戦後の左翼の反米も心情としては連続しており、同じものではないかと思うわけです。一方、戦後の日本政府は一貫して親米なわけです。そのような分裂が、敗戦後ずっと続いていて、日本人がそういう分裂状態にあるんだというふうに考え始めると、さらに進んで、敗戦後だけでなくて、明治以来、ずっと分裂状態だったんではないかと・・・」
▼「個人の神経症のレベルで見れば、戦後の反米はいわば自我同調的(ego-syntonic)行動ではないわけですよ。ひとつの自我非同調的(ego-dystonic)症状と言いますかね、だから長続きしないんで、一貫した国民の行動とはなり得ない。なんかワット発散すると、ポシャッと萎んでしまうという点は、まさにひとつの病的な症状であったというふうに見ることができるわけなんですけどね。 だから、反安保闘争で、あれだけ国会を民衆で取り囲んで、内閣もそれでつぶれたわけなんですけれど、そういうことが終われば、みんなケロッと忘れたかのように、またアメリカ一辺倒に戻ってしまう。」 (岸田秀 「黒船幻想」より )
▼岸田秀氏の言葉を書き写していたら、面白くて止まらなくなった。明日も続けたい。
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