複雑な、あるいは歪んだ・・・
「友情」あるいは「恋愛」 8月5日
ニチニチソウ(日日草)/キョウチクトウ科ニチニチソウ属の一年草。世界の熱帯地域に広く野生化して生え、民間薬として腫瘍薬に利用されている。。西インド諸島が原産地といわれているがはっきりしない。真夏の炎天下、白や赤紫の五弁の花が陽に向ってしっかりと開く。花は一日で命を閉じるが、新しい蕾が次々と生まれ、夏から秋にかけて、花が絶えることはない。花言葉は「若い友情」、「楽しい思い出」 。
▼ 岸田秀氏(和光大学教授)とK.D.バトラー氏(知日派のビジネスコンサルタント)の対話で進められる「黒船幻想」が出版された1986年、日米は貿易摩擦の只中にあった。高度成長を達成した日本はその時点で、護送船団方式や既得権保護という独特の日本型経営から抜け出し大胆な構造改革に乗り出すべきだった。アメリカは日本に強く「構造改革」を迫った。しかし、その圧力を受けると日本はますます霞ヶ関の官僚を中心とする体制を頑なにしていったように思う。
▼岸田氏にいわせると日本は黒船来航以来、「外的自己」(軍事的に到底かなわない欧米諸国を崇拝し、外的現実に対応しようとする=佐幕開国派)と「内的自己」(日本の誇りと独自性を主張する=尊王攘夷派)の精神分裂に陥った。そしてこの分裂症は現在に至るまで続いている。たとえば、内治派と征韓派、政党政府と軍部、保守党政府と左翼陣営、政界と経済界、などである。
▼戦後、高度成長を国をあげて追求した日本は、日米安保という強固な「外的自己」に対抗するバランス処置として、一丸となって経済戦争に勝ち抜くことで「内的自己」の堅持を謀った。軍事大国に変わるものが経済大国になることだった。その膨張が飽和点に達し、世界を震撼させる存在になった時、日本は謙虚にアメリカが迫る「構造改革」に舵を切ることはできなかった。逆にさらに膨張をつづけ、歴史的規模のバブルに突入し、弾け散った。なぜ、日本は狂信的なバブルに迷い込んだのか、その深層にはアメリカへの歪んだ感情が働いていたのではないか。アメリカへの対抗措置としての経済膨張をやめることはできなかった・・・。
▼バブルは崩壊し、いま日本は長期的な経済不況に陥り「内的自己」のやり場を失っている。一方で、「外的自己」の膨張は著しく日米関係は戦後で最も良好な状態にある。その渦中で9・11同時多発テロが起き、アフガンそしてイラク戦争へと続く中で小泉内閣は尋常ではない従順な姿勢でブッシュ政権支持を打ち出している。「湾岸戦争では出遅れた。今度こそ・・・・」という心理は「外的自己」がもたらす強迫観念そのものに見える。
▼岸田氏の論でさらに興味深いのは、日米の出会いについての解釈である。岸田氏はこう断言する。
「アメリカと日本の最初の関係のはじまりなわけですけれども、その最初の事件に関するアメリカ人の見方と日本人の見方に、非常に大きな開きがあって、そこに日米誤解の出発点があるんじゃないかと思います。日本の側から言えば、あれは強姦されたんです。」
▼「僕は、個人と個人の関係について言い得ることは集団と集団との関係についても言い得ると考えているわけです。強姦されたと言ったのは、司馬遼太郎さんですがね。僕はどこかで読んだんですけれども、そのとき、まさにそうだと僕は思ったわけです。日本が嫌がるのにむりやり港を開かされたのは、女が嫌がるのにむりやり股を開かされたと同じだと。ところがアメリカのほうは、近代文明をもたらしてあげたんだぐらいに思っている。」
▼「アメリカのほうは、封建主義の殻に閉じこもっていた古い日本を近代文明へと開いた。むしろ恩恵を与えたぐらいのつもりで、日本のほうは強姦されたと思っているわけですね。同じ事件に関する見方が、かくも違っている。」
▼「ああいう形で日米が出会ったのは、やはり不幸な出会いだったんじゃないかと思います。いわば、ある男と女の関係が強姦ではじまったようなものです。そしてその強姦された女は、その男と仲良くしたいと思うんだけれども、いろいろなことから、どうしてもこだわりがあるわけです。」
▼「日米関係の出発は、お互いにぜんぜん知らなかった同士であった男と女で、男が女を強姦することによって、二人の関係がはじまったというのに匹敵する一つの不幸の出発であったと。」
▼「強姦と和姦の区別は非常に難しいんで、このへんはアメリカのウーマンリブの連中も主張していると思うんですけれども、強姦された女が男に協力するんですよ。最後まで抵抗して、いやだいやだと言い通し、暴力で押さえつけられて、むりやりやられるというケースはむしろ少なくて、あるところで男に協力するわけですね。あそこのほうがいいと男を快適な場所に連れて行ったり、男が喜ぶようなサービスを自ら選んで提供したり。」
▼「やっぱり個人の神経症の患者の精神療法とまったく同じで、患者自身がもっとも認めたくない不愉快な事実を認めないと、治療にはならないわけですから、その事実を両方が認識する必要があるんではないかと思います。そして男と女の場合でも、強姦された女も、この男とと仲良くしようとする場合には、被害者のほうも、その事実を否定するわけですね。加害者はもちろん否定する。被害者も否定する。だから否定するという点で、加害者と被害者が同盟するということがあるわけです。」
▼「自分がそういう屈辱的な目にあいながら、のこのこと相手について行ったわけですから。自分がそんな卑屈なことをしたことは自分でも認めたくないんです。最後の最後まで抵抗して暴力で抑え込まれた場合は、女は、少なくとも自ら進んでは協力しなかったという最低線の自尊心は守ったわけですから、まだしも屈辱感は少ないんです。怯えて屈伏し、男に気に入られてようとして積極的にサービスしたりしてしまった女のほうが屈辱感はくらべものにならないほど深い。そういう点から考えれば、抵抗したあげく、軍事的に敗北して植民地になった国よりも、日本のほうが屈辱感は深いと見なければなりません。しかし、強姦した男のほうから見れば、後者の女に対しては前者の女に対するほど加害者意識はないでしょうね。女が喜んでいるように見えたでしょうから。」(岸田秀「黒船幻想」より)
▼ 15年以上前に書かれた文章が、いま異様な現実味を帯びていると感じるのは自分だけだろうか。この「日米強姦論」を書き写しながら、アフガンやイラクのことを思う。テロ後、アメリカの攻撃にさらされた国々に渦巻く屈辱感がこれからの世界をさらに異様なものにしていくのではないか。その重大性について、当のアメリカ政府は何も気づいていないのではないか。
▼ 一方、アメリカに強姦された屈辱感を内に秘めひたすら従順な道を行く日本の精神は、そのまま企業社会に生きるサラリーマンの精神状態に反映されているのではないか。自尊心を押し殺し従順を演じる屈折した心理が組織改革の機運を摘み取ってしまい、現状維持しかできなくなった組織の中の個人の精神そのものではないのか。
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