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   近代日本史を鷲掴みする @       

   「卑屈な楽天主義者」  8月13日

ガマ(蒲)/ ガマ科ガマ属。 矛(ほこ)のように見えるガマの穂先は「がまほこ」という。これがカマボコの語源となった。蒲鉾という漢字の「蒲」はガマからきた。また、昔、鰻は筒切りにしてそのまま棒に刺して焼いた。その形がガマの穂にそっくりだったので、「蒲焼」といった。その「蒲」はガマからきた。昔は綿代わりに座布団などに入れられた。ふとんという字も「蒲」の字を使って「蒲団」とも書く。
 ガマを「狐のロウソク」と呼ぶ地方もある。実際にガマの穂をアルコールや灯油に浸して火をつけると幻想的な炎をかもし出す。ガマの綿毛はふわふわして気持ちいい。(出典「身近な雑草のゆかいな生き方」)

ガマの花言葉は、従順、素直、あわてもの。

▼ 古本屋の棚から何気なく一冊の本を抜き出した。吉田茂氏著の「激動の百年史 〜わが決断と奇跡の転換〜」、吉田茂とは、ご承知の通り、ワンマン宰相と呼ばれた戦後復興期の総理大臣である。この本が出版されたのは1967年、確かこの年、吉田茂氏は他界したと記憶している。この本は吉田氏の目線で平易に明治百年の日本の軌跡を述懐している。ふと読み始めて、その確信に溢れ堂々とした語りに圧倒された。政治の核心にいた当事者でありながら、自他の姿を一瞬にして正確にとらえる歴史家の眼差しがある。
▼同じ日、新刊書の並ぶ書店の店頭で「日本人はなぜかくも卑屈になったのか」(飛鳥新社)を手にする。あの岸田秀氏がノンフイクション作家の小滝透氏と対談したものをまとめたものである。先日来、岸田氏の20年前の著書を読み直し新鮮さを感じているが、この最新の対談集はそのひとつの集大成といっていいだろう。
▼いま、自分の稚拙な理解力で日本の近代史を鷲掴みするには、吉田茂氏の途方も無い楽観的な思考と、岸田氏の身につまされる悲観的な認識、その両方を教科書にするのが得策だと考える。しばらく、この二冊を寄りどことに、近代日本の根本について、自分なりに整理したい。
※ 論考は、吉田茂氏の著書の章立てに従って行う。その第一章は「明治の偉業はこうして始められた」、それにあったものを「日本人はなぜかくも卑屈になったのか」から拾い出す。吉田茂氏の著書を教科書に、岸田氏&小滝氏の著書をサブテキストのようなイメージで考えて進めたい。
それぞれの引用は■と◆で示すことにする。

   第一章

 ■ 明治の偉業はこうして始められた(吉田茂)
 ◆ なぜ明治人は「プライド」を回復できたのか(岸田秀&小滝透)

▼ 近代日本の幕開けは、アメリカ軍が行った一つの威嚇から始まる。1853年(嘉永6年)、浦賀にペリー率いるアメリカ艦体が来航して軍事力を誇示しながら開国を迫った。この威嚇の大義名分は「自由と民主主義」、当時のペリーの日誌にも「閉ざされた封建国家に自由と民主主義を植えつける」という決意が書かれている。
▼このアメリカの手法は今も綿々と生きている。今年3月、イラク攻撃を敢行したアメリカ軍、その行動様式は一世紀前と少しもも変わっていない。「自由と民主主義」という大儀を掲げる一方で、その攻撃作戦には「衝撃と恐怖」という驕り高ぶった名前が付けられた。忘れもしない3月22日、バグダッド市内に立ち上ったキノコ雲は、多くの日本人に東京空襲、そしてヒロシマを想起させたが、このバグダッド市内空爆の作戦名が「衝撃と恐怖」だった。民衆を精神的に陥れ疲弊させ、その一方で「自由と民主主義」という甘いビラを空からまく、これがアメリカの手法である。
「幕府はこのアメリカ艦隊を前にして譲歩することはやむをえないと考え、二世紀以上の伝統を破って和親条約を結び、下田、箱根の二港を開き、さらに二年後の1856年(安政三)には、アメリカ総領事ハリスの強硬な要求に従って通商条約を結んだ。
 交渉にあたった幕府の役人たちは、阿片戦争とアロー号事件における清国の敗北のことを知っていて、日本が清朝の二の舞いを踏むことを恐れたのであった。」
「しかし、通商条約をめぐって日本の国論は二つに分かれた。その一つは、開国論であり、彼らは鎖国の方針を固持しようとすることは、西洋諸国との戦争になり、日本が敗れるおそれがあるから、開国する以外に道はないと主張した。
これに対立するものとしては攘夷論があり、彼らは外国の開国要求を拒否し、外国船を打ち払うことを主張した。彼ら攘夷論のなかには外国に対する原始的な嫌悪感から反対するものがあったが、しかし、そのすべてが単純な狂信者たちではなかった。
攘夷論者のなかには、西洋諸国の軍事力に威圧されて開国することは独立を危うくするものであると考え、いったん攘夷して西洋諸国の圧力を退け、そのあとで自らの意思で開国することを説く人々もいた。彼らは、仕方がないから開国するという敗北主義的な考え方では、日本の独立を保つことはできないと考えたのである。

 
▼そして、バグダッド空爆と同じように当時の日本人が「衝撃と恐怖」に打ち震えた事件が起こる。一つは1863年の薩英戦争(前年の英国人を殺傷した「生麦事件」報復として、イギリスが薩摩藩を攻撃)、もう一つが翌年1864年の馬関戦争(長州藩などの報復が目的で、米・英・仏・蘭四国の連合艦隊が下関沖で長州藩と戦った事件)である。
「明治政府は長州と薩摩が主軸になってつくられますが、僕は長州と薩摩が馬関戦争と薩英戦争で負けたことがショックで明治政府は被害妄想になったのだと思います。従って政権を取ったあかつきには二度と列強に負けまいとする過剰な強兵策が実施されます。つまりそれだけ西欧列強が怖かったのでしょう。これは理屈ではなく、心からわきあがる、ちぢみ上がるような恐怖だったと思います。」
▼ 「心からわき上がる、ちぢみ上がるような恐怖」、この経験を通過した薩摩や長州の攘夷論者たちは、一挙に開国論者へと豹変する。巨大軍艦からのとてつもない砲撃、それに度肝を抜かれた志士たち。「衝撃と恐怖」作戦は見事に成功し、日本は屈伏した。岸田氏は近代日本の原体験を強姦に例える。
「日本の側から言えば、あれは強姦されたんです。日本が嫌がるのにむりやり港を開かされたのは、女が嫌がるのにむりやり股を開かされたと同じです。ところがアメリカのほうは、近代文明をもたらしてあげたんだぐらいに思っている。アメリカのほうは、封建主義の殻に閉じこもっていた古い日本を近代文明へと開いた。むしろ恩恵を与えたぐらいのつもりで、日本のほうは強姦されたと思っているわけですね。同じ事件に関する見方が、かくも違っている。」
◆「日米関係の出発は、お互いにぜんぜん知らなかった同士であった男と女で、男が女を強姦することによって、二人の関係がはじまったというのに匹敵する一つの不幸の出発であったと。」

▼ 薩英戦争・馬関戦争後、攘夷論者は、一気に開国への機運を高める。つい数日前まで「仕方がないから開国するという敗北主義的な考え方では、日本の独立を保つことはできない」(■)と考えた彼らは豹変した。「今、自分たちの国が滅びては実もふたもないではないか。まずは国力をつけることだ。」「まず富国強兵をすることだ。攘夷はその後すればいいじゃないか。」

▼岸田氏はこの時、日本という国は個人で言う精神分裂の病に陥ったのだという。、「外的自己」(軍事的に到底かなわない欧米諸国を崇拝し、外的現実に対応しようとする=佐幕開国派)と「内的自己」(日本の誇りと独自性を主張する=尊王攘夷派)の二つが葛藤する精神分裂だ。そしてこの分裂症は現在に至るまで続いている、という。たとえば、内治派と征韓派、政党政府と軍部、保守党政府と左翼陣営、政界と経済界、などである。
「強姦と和姦の区別は非常に難しいんで、このへんはアメリカのウーマンリブの連中も主張していると思うんですけれども、強姦された女が男に協力するんですよ。最後まで抵抗して、いやだいやだと言い通し、暴力で押さえつけられて、むりやりやられるというケースはむしろ少なくて、あるところで男に協力するわけですね。あそこのほうがいいと男を快適な場所に連れて行ったり、男が喜ぶようなサービスを自ら選んで提供したり。」
「自分がそういう屈辱的な目にあいながら、のこのこと相手について行ったわけですから。自分がそんな卑屈なことをしたことは自分でも認めたくないんです。最後の最後まで抵抗して暴力で抑え込まれた場合は、女は、少なくとも自ら進んでは協力しなかったという最低線の自尊心は守ったわけですから、まだしも屈辱感は少ないんです。怯えて屈伏し、男に気に入られてようとして積極的にサービスしたりしてしまった女のほうが屈辱感はくらべものにならないほど深い。そういう点から考えれば、抵抗したあげく、軍事的に敗北して植民地になった国よりも、日本のほうが屈辱感は深いと見なければなりません。しかし、強姦した男のほうから見れば、後者の女に対しては前者の女に対するほど加害者意識はないでしょうね。女が喜んでいるように見えたでしょうから。」

▼こうした近代日本人の源流にある卑屈さを認めた上で、もう一つの日本人の側面に注目したい。浦賀沖で、下関で、初めて巨大な最新技術を目撃した時、国家とか大儀という枠組みを離れて
「こりゃすごい!」と純粋な好奇心を花開かせた無数の個人がいたことだ。この楽天的な知力を日本人は歴史の中で蓄積してきた。高度成長の頂点で吉田茂は「激動の百年史」を書いたが、その中で彼が日本人の美徳として強調しているのが、苦境に立った時に、日本人が示す現実的な勤勉さと心の奥底に希望の光りを失わない楽天主義である。
「戦後の日本においてなしとげられたことは、ある意味では明治の日本においておこったことの再現であり、ある意味では明治の日本において始められたことの完成であった。
■あらゆる文明はその根幹に冒険心をもっている。明治の日本人は見知らぬ強力な文明に直面した時、長い間親しんで来た習慣を捨てて、異国の文明を取り入れることを恐れなかった。
■同じように、戦後の日本人は、敗戦と占領という状況に直面したとき、ずる賢く占領軍を迎えるのではなく、占領軍の指示した大変革に対して男らしい態度をとり、言うべきことは言ったあとで、改革をおこない、その改革のなかに日本を再建する方法を見出そうとした。
■そしてそれができたのは、日本人が過去の過ちにくよくよする代わりに、現実を見つめ、こつこつと働いたためであった。
攘夷に失敗して、西欧諸国の力を知った武士たちが、あっさりと開国に踏み切ったように、戦争に敗れた日本人はその敵の美点を認めた。占領軍のすべてが正しいとは思わなかったが、アメリカやイギリスが概してりっぱな文明をもっていることを、日本人は認めたのである。疑いもなく日本人は「GOOD LOSER」(よき敗者)だったのである。」

▼吉田茂氏のいう「GOOD LOSER」(よき敗者)は、岸田氏に言わせると強姦された者が心と裏腹におこなう卑屈な行動の表れとなるのであろう。二人の論考はそれぞれ正しく、それぞれを含み呑んでも矛盾はない。日本人が最もその力を発揮するのは、絶望的な局面に陥った時である。日本人は、一刻も早くこの混乱を打開し安定を取り戻したいと考える。それは地震や台風などの天災に晒された時の対応の見事さに反映されているのではないだろうか。起こってしまった大災害についてくよくよ悩んでも仕方ない。今、どうするかだ。そういわんばかりに、日本人は具体的に行動を始める。
▼忘れられない一つの風景ある。未曾有の大地震に襲われた数日後の神戸の風景である。そこには涙はなく静かで厳粛な空気が流れていた。人々は整然と配給の列に並びテキパキと動いていた。盗みもなくパニックもなかった。この焼け野に立って、終戦直後の日本人もこのように厳粛だったのではないか、と思った。生活者としての日本人は底知れぬ知恵と知性を持っているのだ。危機に瀕したとき、具体的にどう動けばいいのかを知っている。それは理不尽な天災に晒された歴史の蓄積から積み上げられてきた能力である。
「日本人が大きく変動する状況において、こつこつと働き続けることができたのは、彼らが心の奥底に希望の光を失わない楽天主義者であったからである。
日本人はときには苛立つこともあったが楽天主義的な性格のために元気を失うことはなかった。」
「とりあえず目の前の難題をどう解決するかだ。」とし具体的に動く日本人の行動様式は、昆虫型である。目の前の餌を運ぶこと、一匹一匹はただそれだけだが、俯瞰してみるとその群れはあたかも一つの意志を持った集団のように見える。下からわき上がりそれが組織化される自己組織型社会が日本だと思う。この社会の欠点は目の前の餌がなくなった時に露わになる。次の餌が来るまで、右往左往するだけになってしまうのだ。
▼昆虫型社会に対するのは哺乳類型社会であろう。この社会は絶えず、抽象的概念で集団を鼓舞していかなければならない。「自由と民主主義」を掲げ民衆をひっぱっていくアメリカは哺乳類型社会である。
▼強姦されたという潜在的な屈折感は、目の前の餌を追っているときには吹き出てこない。しかし、餌を食べ尽くした時、混乱が生まれる。哺乳類になろうなんて考え始めると、「これまでなんのために餌を食べてきたのだろう。」などと隘路に陥り、すぐに思考が停止してしまう。明治の終わり、日露戦争に勝利した後、近代日本はこのジレンマに襲われる。精神異常が噴出したのだ。それは高度成長が終わりバブルに突入後の日本のジレンマと重なる。
                                             つづく

                          2003年8月13日
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