近代日本史を鷲掴みする A
「天皇というシステム」 8月14日
フヨウ(芙蓉)/ アオイ科フヨウ属。落葉広葉低木で、中国原産。日本では関西以西、四国、九州、沖縄に分布する。淡いピンクや白の可憐な花を咲かせる。
茎の皮は強く、編んで様々な用具をつくったり、紙を作る原料としても利用されてる。絵画に描かれることも多く、屏風や掛軸、寺院の天井画や着物の柄にもなっている。
花言葉は、しとやかな恋人・繊細美・微妙な美しさ
第二章
■ 近代化のもたらすジレンマに苦しむ(吉田茂)
◆ なぜ明治人は「プライド」を回復できたのか(岸田秀&小滝透)
◆(岸田) 「幕末の日本は一神教の世界のヨーロッパに脅かされたのですが、人間は敵と対抗している場合、しばしば対抗している敵のまねをします。それを「攻撃者との同一視」と言いますが、ヨーロッパが唯一絶対神を信じていて、信じることでまとまっているというので、日本も天皇を神聖不可侵な存在にして、天皇中心でまとまる形にしたのではないか。だから日本の近代天皇制は一神教のヨーロッパのコピーではないかと考えているのですが・・・・・・。むろそれがうまくいったのはそれなりの歴史的背景があると思います。
◆(岸田)「攻撃者との同一視」とは心理学上の規定で、たとえばいじめの問題でも、親にいじめられた子は親になると自分の子供をいじめるんですね。自分をいじめた者を同一視して、いじめ親になるわけです。そういうわけで、いじめは世代的に伝わっていくんです。
◆(岸田)「一神教がわれわれを脅かしている敵の根本にあることに、日本人は気付いたのではないか。そこで、日本にも一つの絶対的な存在が必要だ、それには天皇しかいないということなったのだと思います。」
▼ 江戸幕府は朱子学の上に立ち、天皇を次のように位置づけていた。「今は天皇に統治能力がないから幕府が天皇に代わって統治する。」(◆) この解釈を逆手にとれば天皇は統治能力を取り戻せば幕府は朝廷に権力を返さなければならない。その意味で、「もともと朱子学には幕府の秩序を作ると同時に、倒幕思想に転換する要素があった」(◆)ことになる。
▼ 江戸後期、熱烈な尊王攘夷論を展開した学風に水戸学がある。長州藩の吉田松陰は水戸学を基礎として尊王攘夷論を展開するが、水戸学と吉田松陰の考えには決定的な違いがあった。「水戸学の要諦は、まず藩に忠義を尽くす、それが幕府・将軍家への忠義となる。それが天皇・朝廷に対する忠義になるという段階論である。」(◆) これに対し吉田松陰は、真ん中の藩や将軍家へ忠義を飛ばし、直接、天皇に忠義を尽くすの正しいのだと、水戸学を否定した。この考えは、一神教のもと民衆を平等とするヨーロッパの考えのコピーだと岸田氏はいう。いずれにしても、「明治の日本は天皇という絶対的なものを分母にして、初めて分子の四民が平等になるという原理を応用している。分母がものすごく大きいと少々身分が上であろうが下であろうがニアリ・イコール・ゼロということになる。これが天皇のもとでの平等なのだ。」(◆)
▼天皇を絶対権力をもつ現人神とし、その下の国民を四民平等とした考え方は、帝国主義時代にあった当時の世界情勢に歩調をそろえたものだった。吉田松陰らのしたたかさは、天皇という存在を一つのシステムとしてリアリテイを与えたことにあると思う。そして、この近代天皇のシステムを見事に具現したのが明治天皇という個性だった。
■ 「天皇を中心とした明治の指導者たちは、その大きな責任感から決定権は保持したけれども、国民の活力をくみ上げて活用することにはきわめて熱心であった。
彼らは人材の育成に熱心であり、指導的人物を育てる大学には身分や資産を問わず、能力さえあれば貧しい家の子弟も入学できたのである。それは当時のヨーロッパのどの国にもみられない平等な制度であった。そしてなによりも明治天皇というすばらしい君主をもつことができたのは、日本にとってしあわせなことであった。
■ 政治の重要な決定は、天皇と元老によってなされ、軍事の面でも天皇はすべての相談にあずかり、上級将校の性格や能力まで知っていられた。そこで明治天皇は指導者たちの人柄を知りつくし、彼らの個性に応じてその能力を発揮させられた。
▼ 欧米諸国の威嚇によって、急場しのぎで作られた明治という国家は、天皇という強烈なシステムで、強引に近代化に驀進するというものだった。これがこのままいつまでも続くとは多くの当事者は思っていなかったはずだ。そういう意味では、明治という時代と、第二次世界大戦後の復興期・高度成長期は類似している。
▼ そして、近代国家を目指し驀進した時代は、明治天皇の崩御とともに幕を閉じる。さらにこの数年前、日露戦争に勝利した日本は、「近代国家をめざす」という目的を一応達成する。日本人は国民的目標を失った。
▼吉田茂はこの目標の喪失感と言う意味でも、高度成長を達成した日本は、日露戦争後の日本と似ている、という。日本はこの時、次の目標を掲げ独立国家としての詳細な仕上げをおこなわなければならなかった。他国に追いつくことにまい進する中で先送りした問題に、取り組む時節がきたのだ。しかし、それがなされることなく無作為に時間が空費された。この意味でも、日露戦争後の日本は高度成長達成後の日本と酷似している。
■ 明治の国家体制はあくまでも非常時を乗り切るための例外的な体制であり、そのままの形でずっとつづけることのできるものではなかった。それはすぐれた天皇と、共通の記憶によって固く結ばれた強力な元老たちが存在してはじめて弊害をもたらさずに機能しうるものであった。したがって、明治天皇の崩御は一つの時期を画する大きな事件であった。
■ 有名な小説家夏目漱石は「夏の暑いさかりに明治天皇が崩御になりました。そのときわたくしは、明治の精神が、天皇にはじまって天皇に終わったような気がしました。」と、書いた。明治天皇の崩御とともに、冒険心と若い国民の活力の動員によって特徴づけられる明治の創業は終わり、苦しい転換期が始まるのである。
▼ 明治憲法では軍は天皇の統帥下に置かれ首相は直接の権限を持っていなかったが、明治天皇と元老が賢明な判断力を持っていた時には、このシステムはうまく回った。しかし、明治天皇という強烈な個性が崩御し元老たちが衰えると、実質的に天皇をうまく操り暴走する軍に歯止めをかけることができなくなった。明治天皇という個性に負った急場しのぎのシステムは、一転して危険なシステムとなってしまった。
■1930年代、当時の国際政治は変転きわまりない複雑な様相を呈していた。しかし、日本の政治を指導していた人々の目は主としてアジアに限られ、ヨーロッパの政治の動きや、アメリカの考えを十分に理解できなかった。三国同盟を結べばアメリカに対する日本の立場は強くなるから、日本はアメリカから中国についての妥協を得ることができるというような誤った考えはそこから生まれた。・・・・
▼ 明治天皇の崩御以降の日本外交のジレンマについては、出版されたばかりの「吉田茂の自問〜敗戦、そして報告書「日本外交の過誤」〜」(小倉和夫著・藤原書店)を参考に、考えていきたい。
つづく
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