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   近代日本史を鷲掴みする B       

日本外交の過誤/満州事変(1) 8月16日

ムクゲ(木槿)/ アオイ科フヨウ属。 サルスベリやキョウチクトウとともに真夏を代表する三花木のひとつ。6月〜9月まで咲き続ける。中国原産といわれ、日本へは奈良時代に渡来。樹は3メートルくらいの半落葉性低木。花は枝先につき、一日花。「槿花一朝の夢」とは栄華のはかなさをいった言葉だが、これはムクゲの花の一日だけの短命から来ている。ムクゲは韓国の国花、韓国名ムグンフア(無窮花)はつぎつぎと咲き続ける花の姿をいったもの。(「花ごよみ花だより」より)

むくげ全般の花言葉は、デリケートな愛・デリケートな美・説法・尊敬・信念・繊細美・柔和
むくげ(紫紅)の花言葉は、信念

▼ 2003年4月,「日本外交の過誤」という外務省の文書が公開された。終戦から10年、講和条約を目前に控えた時の首相・吉田茂が外務省の若手官僚に、10年か15年前の先輩たちがやったことを総括するよう命じた。若手官僚達は、それぞれ作業チームをつくり、日中戦争・日米開戦・原爆投下とソ連の参戦、そして全面降伏・・・といった一連の悲劇の渦中で外務官僚はどう判断しなにを行ったのか、そしてなぜ悲劇を食い止められなかったのかを分析・そして批判した。それをまとめた文書が50年の眠りから覚め、「日本外交の過誤」として表にでた。この文書をもとに外交官・小倉和夫(元フランス大使)が「吉田茂の自問」と題して本にした。小倉氏がプロローグに書いたことは、なぜ今、「近代日本史を鷲掴み」したいのか?という自分の欲求と重なる。
●・・・現在の問題とは何か。米英主導の国際秩序は、果たして真に公平なものであるのか、その秩序を守る側に日本が立つとすれば、その反対側にいるのは果たしてテロ集団と「悪の枢軸」だけなのか。日米同盟の意味は時代とともに変わってきており、その機能も変わらざるをえないものなのか。同盟における真の信頼とは何なのか。中国のナショナリズムは、日本にとり、また国際社会にとり、警戒すべきものなのか、それとも中国をして大国の責任を果たせ、国際社会の安定に寄与してもらうために、ナショナリズムはむしろ良き触媒となり得るのか。ロシアは今や民主国家として、真に我々のパートナーとなる国家に成長したのか。その時、ロシアと日本が「同じアジア人」として協力することが可能なのかーーいくつもの問いが日本の側に突きつけられている。
 こうした問いに応えるためにも、そして、過去の過ちが未来の失敗につながらないようにするためにも、「日本外交の過誤」をかみしめなければならないのではあるまいか。


▼「満州事変」「国際連盟脱退」「軍縮会議脱退」「日独防共協定締結」「支那事変」「日独三国条約締結」「仏印進駐」「蘭印交渉」「終戦外交」・・・しばらく、吉田茂や外交官の自問自答を拠り所にこれらのターニングポイントを自分なりに鷲掴みしたい。

   第三章 満州事変

 ■ 大いなる誤算(吉田茂)
 ● 日本外交の過誤(小倉和夫・歴代外交官) ※吉田茂の自問(藤原書店)より
  

▼ 中国・瀋陽の日本領事館というところは、どうも初動に対して鈍感というか緊張感に欠けるようだ。1932年9月18日午後10時半頃、満州(中国東北地方)の奉天(今の瀋陽)郊外の柳条溝付近で鉄道爆破事件があり(事件は関東軍のでっち上げだった)、日本と中国の軍隊が交戦を始めた。その時、奉天(今の瀋陽)総領事の林久治郎は邦人の通夜に出席していた。丁度、清元の歌曲を伴う供養だったので、林は官舎からの緊急連絡後もしばらくとどまり、清元が一段落してから官舎に戻った。そのせいか、奉天総領事から外務省に打電されたのは19日の早朝だった。さらに、外務省もお粗末なことに、この電報はしばらく放置していた。
▼朝、時の外務大臣、幣原喜重郎は新聞を見て事件を知る。そして自ら外務省に電話をかけて事実を確認したというから、なんとも情けない。そういえば、新型肺炎に関しての情報についても最近同じようなことがあった。
▼この満州の日本軍、つまり関東軍の動きについては東京の陸軍は何も知らなかった。その日、臨時閣議が召集されたが陸軍大臣は正確な情報を何も持たず、一両日たってようやく閣議に報告するという有様だった。
 その間、中国は、事件をいち早く国際連盟に提訴したが、日本の現地の代表部は、事実が分からず、東京からの連絡がないまま数日間を無為に過ごさなければならなかった。
▼東京の陸軍本部も知らせないで暴走する関東軍はなぜ放置されていたのか。
「関東軍は、東京の軍首脳の云うことすら聞かぬ有様で、勝手なことをしており、外務省のできることはほとんどなかったのではないか」(元イタリー大使堀田正昭氏の調書より)
さらに不可解なことに、この関東軍の勝手な振るまいは何ら公けの非難の対象になっていない。
▼9月21日と22日の閣議では、陸軍大臣が「これ以上事態を拡大せしめない見込みである。」と答弁、これに対して幣原外相は「見込み」ではだめだ。保証せよ、と迫り、南陸相に不拡大を約束させた。
▼しかし、現場の関東軍は「柳条溝事件」を発端として、あっという間にほぼ満鉄沿線各地に展開し、事件前の状態に復帰することは全く考えられなかった。
▼さらに、朝鮮駐在の軍隊が東京からの指令もなく独断で越境し満州に入った。
▼「不拡大の方針」は事実上、全く無視され続けたのだ。しかし、驚くべきことに、こうした事態に対して、陸軍大臣と首相が陛下にお詫びしただけで、事は事実上追認され、責任の追及は全く行われなかったのである。
云ってみれば、不拡大方針とは、拡大した現状の追認でしかなかったのである。
また、真相究明とその公表ということが全くなおざりにされ、日中両国の衝突は不可避であり、日本の自衛権の止むを得ざる出動であるかの如く処理されたのである。
●そもそも、外務当局は、当初から、事件は関東軍の謀略であると見抜いていた。
奉天発電報六十三号は、次のように報告していた。
「満鉄木村理事の内報によればシナ側に破壊せられたると伝えられる鉄道箇所修理のため満鉄より保線工夫を派遣せるも軍は現場に近寄せしめざる趣にて今次の事件は全く軍部の計画的行動に出でたるものと想像せらる。
●また、後に、国際連盟の派遣した、所謂リットン調査団が指摘した様に、鉄道爆破という事実がなかったことは明白であった。調査団は、この点について調査報告書において次のように云っている。
 「9月18日午後10時より10時30分の間に鉄道線路上もしくはその付近において爆発ありしは疑いなきも鉄道に関する損傷は若しありたりとするも事実長春よりの南行列車の定刻到着を妨げざりしものにして其れのみにては軍事行動を正当とするに充分ならず」

こうした事実は当然、現地総領事館はじめ関係者には知られていたところである。
鉄道が爆破されていない以上、単に不拡大ではなく原状復帰を求め、かつ軍の関係者の責任を追及することがおこなわれるべきだった。
●事変の生起及びその時の軍の行動についての責任を追及せず、真相をうやむやのうちに覆い隠すことに対して、外務当局が体を張っても抵抗するだけの意思と胆力を持っていなかったのはどうしたことなのか???

小倉氏の?は心に響く。収拾の難しい事態に直面した時、不作為を決め込み、事態が過ぎ去るのを黙して待つ、声の大きいものに反射的に従順な態度をとってしまう・・・・こうした経験をバブル後の混乱の渦中、企業で学校で、そして外務省で我々は何度目撃し、当事者にもなったのか。鈴木宗男と外務官僚との関係、それこそ関東軍と外務省の図式にも似ていないのか。そして、なぜか責任の追及が曖昧にされる社会気質、満州事変突入の構図には今の日本社会の病巣の源流が読み取れる。
▼では関東軍暴走にいたる、国内の背景、国際状況を明治天皇死去から時系列で鷲掴みして、再び、「関東軍の暴挙」と「不作為の政府&外務省」について考える。

                                         つづく

                          2003年8月16日
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