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   近代日本史を鷲掴みするC        

日本外交の過誤/満州事変(2) 8月17日

シラカバ(白樺)/カバノキ科の落葉高木。亜高山の陽地に自生。高さ約 30mに達し、樹皮は蝋質の白粉を帯び、紙状に剥げる。   別 称 「しらかんば」 「かんば」 「樺の木」

   第三章 満州事変

 ■ 大いなる誤算(吉田茂)
 ● 日本外交の過誤(小倉和夫・歴代外交官) ※吉田茂の自問(藤原書店)より

  吉田茂の自戒は、近代日本社会のターニングポイントを明快におさえている点で優れていると思う。その一つが、明治天皇という傑出した個性を失い、明治維新という共通体験の元で結束していた元老たちのオーラが減衰した局面である。
 明治の国家体制はあくまでも非常時を乗り切るための例外的な体制であり、そのままの形でずっとつづけることのできるものではなかった。
それはすぐれた天皇と、共通の記憶によって固く結ばれた強力な元老たちが存在してはじめて弊害をもたらさずに機能しうるものであった。したがって、明治天皇の崩御は一つの時期を画する大きな事件であった。
有名な小説家夏目漱石は「夏の暑いさかりに明治天皇が崩御になりました。そのときわたくしは、明治の精神が、天皇にはじまって天皇に終わったような気がしました。」と、書いた。
明治天皇の崩御とともに、冒険心と若い国民の動員によって特徴づけられる明治の創業は終わり、苦しい転換期がはじまるのである。
 近代日本の最初の転換期は明治天皇の崩御を大きな分岐点とするが、目を凝らすと転換の芽は日露戦争後の日本においてすでにはじまっていた。日露戦争の勝利は、国家の独立という明治維新以来の目標をいちおう果たしたので、日本人は国民的目標を見失った。国民は戦勝に酔いながらも戦争以来の苦しい生活を強いられていた。さらに近代化の急速な進展の中で、個人主義思想や社会主義思想が十分に消化されないまま伝統的な価値観との間にいびつな形で漂った。こうした国民の不安定な精神状態を待夏目漱石は、日本の近代化が外からの圧力に対抗するために急激におこなわれたので、日本人の良心や誠実さが失われ、虚偽に満ちた浅薄な社会が生まれた、と批判した。

明治天皇崩御 前後の大きな動きを時系列で整理してみる。

・ 1909年(明治42)、伊藤博文がハルピンで暗殺される。この事件を契機に、元老の持つ統率力がいちじるしく弱めた。

・ 1911年(明治44年)、中国で辛亥革命が起こり清朝が倒れる。これは中国での民族運動の始まりを示すものであったが、広大な国土を持つ中国では、一つの政権が倒れてから民族主義にもとづく中央政府ができるまでには、時間が必要だった。中国は辛亥革命の後、長い混乱期に入った。この民族主義の動きに対する日本の対応力のなさが致命的になる。

  ・ 1912年(明治45年)、明治天皇崩御。

   ・ 1914年(大正3年)第一次世界大戦始まる。

・ 1918年(大正7年)、第一次世界大戦終わる。プロシャ、オーストリア、ロシアの皇帝政府崩壊、ロシアに共産主義政権が成立した。
失われた国際社会の秩序を取り戻す目的で、「国際連盟」が設立された。日英同盟廃棄。

・ 1918年(大正7年)、米騒動が起きる。輸入米を制限する保護策により自己保全を図る地主への反発から起こった騒動だったが、これ以降、北海道、台湾、朝鮮などにおいても、米を生産して食糧増産の措置がとられる。伝統的な農村社会からの決別がはじまった。

・ 1921年(大正10年)ワシントン軍縮会議が開かれる。海軍力の制限がおこなわれ、帝国主義が否定され、ドイツが第一次世界大戦前にもっていた植民地は国際連盟の委任統治下に移された。しかしーーー

   □ ドイツ以外の植民地は依然としてそのままで、委任統治も実質的には    植民地と変わらなかった。

□ アメリカとソ連という大国は国際連盟に入らなかった。

□ 国際連盟規約が全体としてきわめて理想主義的な文書でありながら、そこに人類平等の原則を入れようという日本代表の意見が通らなかった。

1923年(大正12年)、関東大震災。古い東京が完全に破滅した。
1924年(大正13年) アメリカは排日移民法を成立させた。

明治の終わりから大正のはじめ、近代日本を取り巻く内外の環境は大きく変わった。 日露戦争での奇跡の勝利は、「日本はこれで一流国になった。」と黒船来航以来鬱屈していた自尊心をかきたてた。国際社会は第一次大戦後、大国となった日本を受け入れ、国際連盟や軍縮会議を通して一見すると国際協調が進むかに見えた。ワシントン軍縮会議当時の幣原外相は、会議が唄った方針に従って、「平和外交」を行った。確かに各国の中央政府は国際会議の席上では協調路線を示したが、現場では従来の帝国型の行動を強めていった。自分たちが鎖国を解き開放したアジアの野蛮国日本が期待以上に大きくなることは許せなかった。
▼ 各国が第一次世界大戦に没入していた1915年日本が中国に行った「対支二十一カ条の要求」(旅順・大連の租借期限と南満州鉄道の利権の延長)は、アメリカを始めとする列強の現場に大きな不信感をもたらした。中国国内では激しい排日運動が始まった。中国国内での内戦の混乱、その中での排日運動は中国や満州にいる日本人を圧迫しているように見えた。

しかし、幣原外相は、英米との協調を原則に掲げ「急に国際舞台に踊り出て大きな態度を示す後進国日本」の態度に対する嫌悪感を増大する欧米列強への繊細な反応を怠った。日米同盟が廃棄されアメリカで排日移民問題が再燃するなか、英米というアングロサクソンの提携が強まる一方で、日本が中心軸を外れ孤独な帝国になっていることを理解できなかった。
▼また、中国内戦への不介入を決め追い込まれていく現地日本人の精神状態に目を向ける融通性を欠いた。外交官としての高慢な自信からか、幣原外相には世論に耳を傾け、国民の納得を得るための度量がなかった。静観を決め込む「平和外交」は明らかにリアリティーを欠いていた。


■1930年代、当時の国際政治は変転きわまりない複雑な様相を呈していた。しかし、日本の政治を指導していた人々の目は主としてアジアに限られ、ヨーロッパの政治の動きや、アメリカの考えを十分に理解できなかった。三国同盟を結べばアメリカに対する日本の立場は強くなるから、日本はアメリカから中国についての妥協を得ることができるというような誤った考えはそこから生まれた。・・・・

●アメリカの「理想主義」の裏には、人種主義がひそんでいた。日本が国際連盟において提出した人種平等決議案は米国を含む列国によって拒否されたばかりか、1924年、米国は排日移民法を成立させた。
 米国と日本が、明日の国際秩序のあり方について理念を共有できる状態には程遠かった。そのような状況の下で、米国と日本との真の協調が可能であったとは考え難い。ただ、そのチャンスを、日米両国が活用ないし作り出そうとする意図さえなかったとすれば、それは、当時日米関係に横たわっていた溝を両国が各々克服してゆくだけの見識と実行力とを持っていなかったからともいえる。
●米国の事情はさておくとして、日本において、「協調外交」という旗印の下に、いわば外からの強制力を利用して、軍部初め内部の過激な動きを押さえることができるためには、外部の力、すなわち、協調の相手に対する(漠然とした形にせよ)信頼が存在しなければならない。日英同盟には、あるいはそのような信頼は存在したかもしれない。しかし、不平等条約、三国干渉、そして人種平等決議案の廃棄といった歴史的体験を経て来た日本国民に、国際的な同盟や協調に対して、そのような信頼感をうえつけることは至難のわざであった。
●列国との協調という魔法の言葉を用いるには、日本と国際社会の溝はあまりにも深かった。

▼1890年(明治23)開設された国会、1925年(大正14)には男子普通選挙制度が採用された。 政党政治の出現は民主主義をもたらす反面、政治家の間の統一の喪失という現象を伴っていた。明治維新を貫いた第一世代は共通の経験と記憶とい紐で結びついて求心力にあふれていた。しかし二代目の指導者たちは、あるものは政党に育ち、あるものは官僚制、あるものは財界に育つなど、その背景はバラバラで、共通の紐によって結ばれていなかった。また、彼らの興味は選挙などきわめて身近な内なる問題に移り、中国満州や欧米列強の動向に向ける眼差しを失っていた。早くも政党政治には腐敗という病気が取りつき、その結果、民主主義を要求した人々は、現実の政治に強い不満をいだくようになった。かくして、東京の指導部をまったく無視してもまかりとおる「関東軍」の暴走が可能になっていった。
●軍の工作が満州をこえて華北に及び、華北五省の自治分離工作に及んだ時、外務当局が、これを必死に阻止しようとしなかったことは、どうしてか?
しかし、この場合には、軍事力の消耗をきたすような中国中枢への行動に反対する石原莞爾、あるいは英米との対決をおそれる海軍、さらには軍事力の増大を厭う財政当局など、外務当局にとって、多くの「味方」がいたはずである。そうした勢力の結集は何故できなかったのか?
現に、林奉天総領事は、「調書」への個人的コメントの中で、当時軍は金に困っていたのだから、予算を通さないと云えば軍事行動ができなかったはずである、と云っている。しかし、満州事変以降、そうした勢力の結果に見るべきものはなかった。それどころか、2・26事件後成立した広田内閣は、陸軍の華北五省分離工作を全く抑制しなかった。しかも、その状態で、中国と国交調整を行おうとして、失敗した。
●何故、外務当局の関係者は軍に追随するようになったのか?
それはおそらく、単に軍に反対しているだけでは、全く影響力を失いかねないので軍のやり方を是認しつつ、それに歯止めをかける役割を演ずる方が実際的である、との判断ないし気運があったためではないか。
●確かに幣原外相は、閣議において、陸軍大臣が、「これ以上事態を拡大せしめない見込みである」というのを押し返して、「見込み」では駄目だ、保障せよと迫り、南陸相に不拡大を約束させた。しかし、当時の情勢において不拡大とは何であったか。

「柳条溝事件」を発端として、関東軍はあっという間にほぼ満鉄沿線各地に展開し、事件前の状態に復帰することは全く考えられていなかった。
それだけではない。驚くべきことに、朝鮮駐在の軍隊が、東京からの指令もなく独断で越境し満州に入っていたことに対しても、閣議では大問題となったにも拘らず、陸軍大臣と首相が参内して陛下にお詫びしただけで事は事実上追認され、責任の追及は全く行われなかったのである。
● いってみれば、不拡大方針とは、拡大した現状の追認でしかなかったのである。
●そもそも、今日から見て不可解なことは、満州事変をひきおこした関東軍の勝手なふるまい自体が、何ら公けの非難の対象となっていないことである。
●また、真相究明とその公表ということが全くなおざりにされ、日中両国の衝突自体は不可避であり、日本の自衛権の止むを得ざる出動であるかの如く処理されたのである。
●重光葵は、回想録の中で次のようにのべている。
「柳条溝事件に先立つこと三年前、満州の軍閥、張作霖が、関東軍の謀略によって爆死し、それが、現地の軍の謀略であることが首相以下全ての人々に知られた後になっても、陸軍は、責任者を単に予備役に編入するだけで処罰の対象とせず、事件を糊塗し、また、首相以下これに反対せず、軍部の行動が結果的に是認されてしまったことが、昭和の動乱のきっかけであったーーー」
●この考え方によれば、満州事変にあたって、最も重要なことは、不拡大の方針ではなく、むしろ原状回復、あるいは、それがすぐにできないのであれば、少なくとも、真相究明と責任者の処罰であったことになる。
●当時の緊迫した情勢において不拡大を唱えること自体、実は、現状の追認であり、(とりわけ軍部の不穏な動きが予期されていた以上)急いで真相究明と責任の追及を行うべきであったといえよう。

● 起こったことに対応に誤りなきを期し、再発を防止する手だてを講ずることも重要であるが、事が起こった背後の作為、不作為の責任の追及を厳しく行うべきであるとの考え方は、今日においても深くかみしめるべき点であろう。

                                         つづく

                          2003年8月17日
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