トップページにもどります

   晩秋 ユリノキの下で       11月23日

 ユリノキ / モクレン科の落葉高木。5月〜6月に高い梢の葉陰にチューリップ、あるいはユリのような黄緑色の花が咲くところからユリノキという名がついた。葉が着物の半天のようにみえるところからハンテンボクとも呼ばれる。明治7年頃、アメリカから渡来した。

▼聳えるタワービルより高く、天に伸びる我がのユリノキを観に行った。新宿御苑のユリノキのことは今年の1月に知った。(1月18日「奇縁」を参照・・・)ひさしぶりのユリノキ、その真下に潜り込み天空を見つめれば、きょうも不思議に気が晴れる。
▼高さ50メートル近くあるこの巨樹は明治7年に渡来し、日本で最初に植樹されたユリノキ第一号である。樹齢は120年になるこのユリノキの下に初めて立った一月は、かなり精神的に参っていた。尊敬している上司にイラク戦争を反対する気持ちを表明した。その週末、世界中で大きな反戦運動が起こる機運が高まっていた。さりげなくこの戦争の大儀について疑問を呈したつもりであったが、返ってきた罵声にはひっくりかえりそうになった。「お前は反米左翼か!」 その直後から動悸がするようになった。ある朝起きると、呼吸ができなくなるほどの苦しさとやり場のない苛立たしさに襲われた。不安神経症だといわれた。
▼あれから10ヶ月が過ぎたがイラク戦争の大儀はますます分からなくなっている。今なお大量破壊兵器はでていない。5月ブッシュ大統領は戦闘終結を宣言したが、それ以後、各所で起こる自爆テロ、米兵の死傷者は5月以降も増える一方だ。日本政府はブッシュの戦闘終結宣言を受け、戦後復興を前提に自衛隊派遣の検討に入った。「思ったより早く終わったなあ。さあ次は北朝鮮だ。」などと冗談っぽく笑い酒席を沸かす同僚もいた。しかし、本当に戦闘は終わったのだろうか?その疑問をかき消すようにマスコミの紙面には「復興」の文字が躍った。
▼8月19日、バグダッドの国連が爆破された。「この時、国連は初めてまだ戦争は終わっていない。我々は戦争の真っ只中にいる。と悟った。」という話を、国連関係者から聞いた。イラク戦争は泥沼の戦争になる。
▼なぜ、イラク戦争が起こったのだろうか。アメリカは「大量破壊兵器」という大儀など最初から重要視してなかったのではないか。本当に「イラクの民主化」を真面目に考えていたのか。今のイラクの混乱を見ると次々と疑問が生じる。さらに最近になって、イラクを同盟国にすることでイスラエルを承認させバグダッド、アンマン、テルアビルの枢軸をつくりアラブを分断しようとする野望をネオコンの幹部が堂々と公言している。アフガンの戦後復興は国連主導のもと,曲がりなりにも動き始めているのにイラクではなぜこうも全てが空回りしているのか。国連関係者は次のように答えた。「アフガンはアメリカにとってさほど重要ではないのです。それに比べてイラクは不幸にしてアメリカの戦略的利害に直結しているのです。」 
▼アメリカはイラク占領統治の道筋に関して国連に主導権をゆだねようとはしない。これに対して国連は、アメリカの子と言われた親米派のアナン事務総長が、10月2日の昼食会で「国連は(米英による)占領状態がつづく限り、イラクでは政治的役割は果たせない。」と発言し、明確にアメリカと対峙した。
▼国連はアフガン戦争、イラク戦争を経て全く新しいステージに入ろうとしている。もう中立の立場に甘んじてはいない。公正という理念のもとに人道介入も辞さない決意を表明している。その国連に、これもなぜだか日本はあまりにも発言をひかえ語りかけない。思えば昨年の秋、国連では安保理の非常任理事国の選挙があった。日本が立候補すればなんなく通る素地はあった。なのになぜか日本は立候補しなかった。かわりにアジアではフイリピンが選ばれたが、もし日本が非常任理事国になっていれば今年の1月から3月の間に非公式会議の場で17回、イラク危機に関して日本の立場を表明する機会があった。そのチャンスを捨てた。イラク戦争突入直前、日本国民には政府の考え方、さらに国連の動向という最も基本にすべき情報が欠如した。日本はいまだ国連を「平和の象徴」としてシンボル化して何ら具体的な働きかけをする場として位置づけようとしない。なぜなのだろうか。
▼先輩はいまなお「日米同盟」の重要性を唱える。自衛隊派遣や巨額の復興支援も対米協調の延長で語られる。この「日米同盟」の前でいまだ多くの指導者が思考停止に陥っているように私には見える。何がイラク国民にとって最善なのか?アメリカの呪縛をとき解いてさらに俯瞰した眼差しで真摯に考えていきたい。

                          2003年11月23日
トップページにもどります