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        遺稿         12月1日

                                                                                                                                      

















             
 

▼ あまりにも謎の多い殺害である。わからない。昨日、イラクで日本の外交官二人が殺害された。二人はティクリートで開かれる人道支援の会合に出席するためバグダッドから車で向う途中だった。早朝からその悲報が日本列島を震撼させた。そしてその衝撃と共に、いくつもの疑問が押し寄せてくる。
▼イラク情勢には熟知している二人は、危険な幹線道路を護衛も警備員もなしで走行していた。ティクリートはサダム・フセインの故郷で、反米感情が強いスンニ派の三角地帯にある、イラクでも最も危険な場所である。しかも先日来、「アイアン・ハンマー作戦」という大規模な米軍の掃討作戦に晒され、ますます反米感情が高まっていたはずだ。当然、二人はそれを知っていた。なのに、なぜ、警備もつけずに、移動していたのか?
▼なぜ、寄りによって、最も危険な場所で、復興支援の会合などを開いたのか?主催はクウエートに本拠地を置く人道援助組織とCPA(米英の暫定占領当局)と駐留米軍だった。一体、この会合とはなんだったのか?インターネットによると、会合の案内に、「安全対策として米軍が護衛します。」とあるが、なぜ、二人には米軍の護衛がなかったのか?物々しい護衛がつくと目だってかえって危険なのだろうか?次々と疑問がでてくる。それほど現地のことは、この温室の日本ではわからない。あまりにも謎が多い殺害である。

▼殺害された奥克彦参事官は、外務省のホームページに、「イラク便り」を掲載していた。今日、開いてみると、そこに遺稿が掲載されていた。11月27日、感謝祭の日に書かれた文章だった。転載する。
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イラク便り
〜感謝祭とラマダン明けの休み〜



在英国大使館 奥参事官
(CPAを通じた人的協力に参画中)


 今日は11月の第4木曜日、といえばアメリカではthanks givingの日にあたります。この「感謝祭」といわれる休日はアメリカ独特のようで、1621年に始まったと言われています。前の年に宗教的弾圧を逃れようとした清教徒の一行イギリスのプリマスを出港して始めてアメリカ大陸にたどり着きますが、苦労を重ねて始めての収穫を迎えたのが翌1621年の秋で、これがサンクス・ギビングの始まりとされているようです。その後、1789年に初代大統領ジョージ・ワシントンがこの日をアメリカ国民全体で祝福すべき日にしようと呼びかけ、南北戦争中の1863年にはリンカーン大統領が11月の第4木曜日を国民の祝日、と定めました。

 アメリカでは生まれ故郷に親類縁者が集まって皆で七面鳥やカボチャのパイを食べることが今でも習慣として続いています。ここイラクでも、故郷を遠く離れた米軍兵士やCPAの米国人が感謝祭の夕べを祝っています。サンクス・ギビングはアメリカ人にとって、時にはクリスマス以上に重要な家族が集まる時なのです。

 さて今年はこの日が、偶然にも、ラマダン明けの大祭(イード)のお祭りの最後の日に重なりました。イスラム歴は太陰暦を用いていますので、毎年少しずつずれていきます。イードのお祭りは巡礼月明けにもありますが、こちらは「小祭」といわれていて、なんと言ってもラマダン明けの大祭であり、昔の日本の正月休みのように親類・縁者が集まって新しい1年を祝います。バグダッドでは商店街もシャッターを閉めてひっそりとしています。明日が金曜日ですから、翌土曜日からまた日常生活に戻っていくことと思います。

 イラクはすっかり冬の装いで、あれほど暑かった夏が嘘のように思われます。昨日、今日と夜半にかなりの量の雨も降りました。日中の気温は20度に至らない日々がバグダッドでも続いています。

 今年の2月からイラクでの軍事行動に参画してきた米陸軍第82空挺団の本拠地(スンニ三角地帯の一角ラマーディ)でも、サンクスギビングを祝って、七面鳥とグレイヴィーソース、パンプキン・パイを初めとする特別の料理が用意されていました。

 82空挺団の面々も来年3月までには故郷に帰る目処が付いたようで、「あと少しの辛抱で家族に会える。」と皆、遠く離れた家族を思って感謝祭の夜を過ごしていました。

平成15年11月27日(木)

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▼ 感謝祭の日がイスラムのラマダン明けの大祭と重なっていたことを知らなかった。この日、キリスト教徒もイスラム教徒も、皆、家族と共に食卓を囲んで団欒をしていたのか。その家族の風景を奥参事官は見逃さなかった。宗教や思想は違っていも、家族の幸福を願う思いは少しも揺らぐことなく私たちの「根本」であることを、イラク便りは教えてくれる。このイラク便りの遺稿が「家族」という言葉に帰着していることをいつまでも心に留めておきたい。

                          2003年12月1日
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