遺稿 U 12月2日
▼バグダッドからティクリットに向う国道1号線で銃撃され無念の死を遂げた奥克彦在英大使館参事官(45)と井ノ上正盛・在イラク大使館三等書記官(30)。二日後、事件を伝える報道を自分なりに整理すると、どうも二人は自分たちが狙われているのは覚悟の上で「死のロード」を走っていたとしか思えない。
▼米軍のティクリットでの掃討作戦「アイアン・ハンマー作戦」の大空爆があった。その渦中、米民間機爆撃事件が起こった。これに対しアメリカは突然のブッシュ大統領のイラク訪問を仕掛け米兵の士気を高め、さらに掃討作戦の渦中のティクリットで復興会議を開くことでイラク国内外へ占領軍の復興が進んでいることを誇示しようとした。そのことは充分、承知の上で二人はティクリットへ向かった。そして、その道中、テロに曹禺することも覚悟のうえだったにちがいない。そう確信したのは、資料室で「外交フオーラム」の11月号を開いた時だった。ここに奥氏の「イラクの戦後復興における国連の役割」という文章が掲載されていた。文章を読み出す前に、その中に載せられた一枚の写真に目がいった。8月19日の国連爆破テロで亡くなったデメロ特別代表の執務室に立つ奥氏の姿である。執務室は爆破により黒焦げの無残な様になっていた。写真には「デメロ特別代表の執務室を訪れる。2週間前にはここでイラク復興の進捗状況を自信をもって語っていた姿が目に浮かぶ。」という奥氏のコメントが添えられていた。この写真を見た時、なぜ、あんなに無防備で「死のロード」を疾走していたのか、なぞが解けた気がした。以下、奥氏の文を書き写す。
イラクの戦後復興における国連の役割 奥克彦(在英国大使館参事官)
■ イラク人にとっての衝撃
8月19日午後、夏休みを終えバグダッド入りのためアンマンで待機していた私の耳に衝撃的なニュースが飛び込んできました。バグダッドの北東部にあるカナール・ホテルに本拠を構える国連事務所が爆弾テロの被害にあったというのです。
8月の上旬にはバグダッドにあるヨルダン大使館が爆弾テロに見舞われ、ついに米軍兵士意外にもテロのターゲットが広がったか、と思わせた矢先でしたが、まさか国連を狙うとは誰も思ってはいませんでした。翌日、バグダッドに戻った私の目には、この事件が米軍主導の暫定統治に幾ばくかの苛立ちを覚えていたイラク人にも大きな衝撃と動揺とを与えたことが、手に取るようにわかりました。日中は優に50度を超える過酷な真夏の気候の下、治安や電力供給といったライフ・ラインが維持できない占領当局に対して、一般のイラク人の苛立ちは限界に近づいていました。自由は手に入れても、生活基盤は戦争前より悪化したために、当初の米軍歓迎ムードがかなり薄れてきていたのです。そんな中でも、国連だけは自分たちを本当に助けてくれる存在だ、と大半のイラク人は受け止めています。米軍をはじめとするわれわれ連合暫定施政当局(CPA)の関係者にとっては、この認識は正直なところ、「フエアじゃないなあ」と愚痴らずにはおられないものでした。しかし、そのくらい、イラク人一般の間では、人道支援に参画する国連は「外国勢力」とはいえ、別格の位置づけです。それだけにショックも大きかったと思います。
今回の事件が今後の国連の役割にどのような影響を与えるのか、まだ見えてきませんが、イラク戦争後の展開を考える上で、大きな転換点となるでしょう。
テロの犠牲となったデメロ事務総長特別代表は、5月22日に採択された安保理決議1483を受けて、ブレマーCPA長官との間で、徐々にではありますが、国連のプレゼンスを築きはじめ、少なくとも現地ではCPA側も国連との協力関係を進めようとしていた矢先の爆破事件でした。これを契機に国連の腰が引けていくようであれば、テロリストの思い通りの展開となるでしょう。戦後のイラクは、米国一極といわれる現在の国際社会で、国連がどのような役割を担いうるかについて、私たちが真剣に考えるうえで、さまざまな材料を与えてくれます。
■ イラクと国連の深い関係
国連にとってのイラクは、「満艦飾の国」といえるでしょう。イラクが国連の原加盟国であることはあまり知られていませんが、イラクと国連とは、皮肉なことにサダム・フセインが周辺諸国との争いを深めるたびに、その関係を深めていきました。8年に及ぶイラン・イラク戦争後の停戦監視活動に始まり、湾岸戦争での多国籍軍による武力行使を容認した安保理決議678や、その後の、飛行禁止区域の設定、安保理による経済制裁の実施、オイル・フオー・フード計画による人道支援、大量破壊兵器の査察等等、枚挙に暇がありません。こうしてみると、国連のイラクへの関与の度合いは一貫して増える傾向にあったといえます。
イラクをめぐる国連の役割、特に安保理を中心とした安全保障面での関与が、世界の他の紛争地での国連の役割と一線を画しているのはなぜでしょうか。それは、イラク情勢の趨勢が中東地域全体のパワーバランスに根元的な変化をもたらしうるからです。今回の対イラク武力行使の直前の、米英をはじめとする「武力行使止むなし」の立場の国と、「査察をさらに継続すべし」と主張する仏、ロ、独などとの対立はいまだ記憶に新しいところです。そしてこのことが、安保理決議1483によりイラクの戦後統治に関与する国連の役割が明記された後も、国連の立場を微妙なものにしてきたといえるでしょう。
■ 復興支援の現場で不可欠な国連
5月1日に、ブッシュ大統領が「イラクにおける主要な戦闘行為が終了した」と宣言する前から、国連の援助機関はイラク国内での活動を再開していました。特に南部イラクを中心とした、水、医薬品の供給は、まだバグダッド周辺で激戦が続いていた4月上旬には、ウンム・カスル港周辺や、バスラ近辺で展開されていました。私も復興人道援助局(ORHA: CPAの前身)がクウエートで戦後のイラクの青写真を描いていた4月上旬、国際児童基金(UNICEF)の水調査団に加えてもらって、ウンム・カスル唯一の病院での水供給調査に参加しました。この時の私は、イラクへの武力行使発生後、イラク領内に入った最初の日本政府関係者だったと思います。しかし驚いたのは、「調査」といいながら、UNICEF関係者はポリビニール製の組立型簡易水タンクを携行していて、その日のうちにタンクを組み立てて病院に水を供給しはじめたのです。解放されたイラク領内の水供給システムがまったく機能せず、UNICEFがクウエートで借り上げたタンクローリー車が、ひっきりなしにイラク領内に入り、あちこちで水を配っていた頃です。国連事務局爆破で亡くなってしまったUNICEFのクリス・ビークマン次長が、一日に60台規模のタンクローリーで緊急水供給をやっている、と説明してくれました。
この背景には、戦前からUNICEFがイラク国内の医療施設、教育施設の現状をきちんと把握していたことがあって、応急措置とはいえ、現場で直ちにプロジェクトを実施できたわけです。私はそれまでの経験から、国連の援助機関はどちらかというとオーバーヘッド・コストばかり高くて効率が悪い、と感じていたのですが、それは誤りでした。これこそ、お手本のような緊急援助です。
また、当時、ウンム・カスル港の土砂の浚渫が問題になっていました。英軍がいちはやくこの事態を重視し、私に日英共同でウンム・カスル港の浚渫をやろう、さもなくば、世界食糧計画(WFP)が調達した食糧援助船が入港できず、折角の食糧支援もイラクの人たちに届かなくなってしまう、と協力を呼びかけてきました。WFPの担当者も必死でした。日本政府としては、法的に、イラクのように相手国政府が未成立の場合、非政府組織(NGO)か国際機関を通じた支援しか、実施できません。そこで私は直ちにクウエートにある国際開発計画(UNDP)事務所にこの話を持ち込んで協力を仰ぎました。担当のベルギー人、ピーター・ルーズベルトは、「ミスター・オク、簡単ではないけれど、やってみようよ」と、にっこり笑って応じてくれました。実際、このプロジェクトは、英国国際開発省(DFID)のクレア・ショート大臣(当時)が、軍関係への援助になる、といって引いてしまい、また、米国のコンサルタント会社ベクテルが入ってきて、明日からでも浚渫を始めるので日本の出る幕はない、といわれるなど、横槍が入りました。しかし、ピーター・ルーズベルトが粘って、日本のプロジェクトとして仕上げてくれました。そのピーター本人は、たまたま別の場所にあるUNDPのバグダッド事務所にいて難を逃れたのですが、爆発テロで、ご夫人が腕にかなりの負傷を負ってしまいました。
以上は、日本との関わりのある国連援助機関による活動の一端ですが、イラクの復興支援における国連援助機関の役割は不可欠です。しかし爆弾テロにより、現地現地採用のイラク人以外のいわゆる国際職員が相当数引き上げられてしまった今、イラク復興のペースはかなり減速してしまったのです。
■政治プロセスにおける国連の役割
安保理決議1483で政治プロセスへの国連の関与が認められたとはいえ、国内統治の実権を握っているのは、ブレマーCPA長官です。デメロ事務総長特別代表がバグダッド入りした数日後の6月上旬、国際協力事業団(JICA)の川上総裁がバグダッドを訪問されて、旧知であるデメロ特別代表と会談されました。私も会談に同席させてもらったのですが、「政治プロセスにも関与する」と繰り返す特別代表の言を耳にして、「張り切りすぎて大丈夫だろうか。ブレマー長官との役割分担がさぞ難しかろうな」などと気を揉んだものです。
その約三週間後、イラク担当の大木大使との会談では、デメロ特別代表はかなり自信を持って、やがて設立されるイラク人による統治評議会の活動概要、憲法制定プロセスなどを雄弁に語ってくれました。私はこの時、現場ではブレマー長官とデメロ特別代表とのいい役割分担ができつつあるのだな、と実感しました。そのデメロ特別代表も、「イラク国内の治安は、いわゆるスンニ派の三角地帯えお除いては基本的には問題がない」と高村イラク特別措置法委員会委員長に説明した二週間後に帰らぬ人となってしまいました。
政治プロセスへの国連の関与は、ニューヨークで議論すればするほど、統治の権限を侵食されることを懸念する連合国側とそれ以外の国との間で溝が生じるのかもしれません。しかしイラク国内では、CPAと国連とは相互補完関係に立ちうるようです。国連は、米国色を前向きな意味で薄め、その結果、CPAの施策を受け入れやすくすることが期待できます。経済制裁下で、国連の活動がイラク人の日常生活に深く組み込まれたことにも起因するのですが、国連の存在を認知する素地がイラクにはあると思います。安保理決議1500が統治評議会の役割を認知したのも、そういう意味で、さらなる前進だったわけです。
■デメロ特別代表の遺志を継いで
もうお気づきかもしれません。爆破テロにより、国連の物理的な存在は一時縮小しています。しかし、繰り返しになりますが、イラクには政治的、社会的に国連の活動を受け入れる素地があるのです。これを活用しない手はありません。また、「米国一極の世界では、国連は米国の支持なしには無能だ」という批判をよく耳にします。あながち全面否定できないことは今回のイラクへの武力行使決定をめぐる経緯をみても明らかです。しかし、イラクの暫定統治、憲法に基づいた政府の樹立には、なお相当の時間とエネルギーが必要です。その重荷を米国と一部の連合参加国だけでは、いずれ背負いきれなくなるでしょう。その時、国連という機関の役割が必ず大きくなっていきます。
これを見越して、例えば安保理の非常任理事国であり、イスラム国でもある、シリアやパキスタンを前面に押し立てて、イスラム勢力と非イスラム勢力との衝突ではなく、「国際社会とテロとの戦い」という構図をイラク復興の中で確立することに日本政府が関与できる余地があるかもしれません。このような策を講じてこそ、「自分が負傷しても任務を解かないでくれ」と叫びながら瓦礫の下で亡くなっていった、デメロ特別代表の遺志を生かせるのではないでしょうか。
(奥克彦 :外交フオーラム11月号より)
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