平成天皇の覚悟(1)  12月23日

モチノキ/ モチノキ科の常緑広葉高木。本州中南部、四国、九州、沖縄に自生する。葉は革質で光沢がある。4月頃に目立たない花を咲かせ、秋から冬にかけて赤色の実をたくさんつけ、鳥を呼び寄せる。雌雄異株。


▼ 団地の駐車場の横のモチノミが、それは見事な紅い実をつけた。たくさんの鳥が実をついばみにやってくる。ふと気がつくと、紅葉の秋は過ぎ去り、葉を落した裸枝が冬の青空を突き刺している。そんな冬の荒涼の中では赤という色が実に映える。遠くからもはっきり見える赤い宴、勇んで押しかける鳥たちの気持ちが愛らしい。

▼ きょうは天皇誕生日である。最近、平成天皇と皇后のことが気にかかる。私は右翼でも左翼でもない、中庸な市民にすぎず研ぎ澄まされた思想性はないが、平成天皇の最近の言葉が強く頭に残る。
昨年の天皇誕生日の記者会見、
 「今年は,沖縄が日本に復帰して30周年に当たります。30年前の5月15日,深夜,米国旗が降ろされ,日の丸の旗が揚がっていく光景は,私の心に深く残っております。先の大戦で大きな犠牲を払い,長い時を経て,念願してきた復帰を実現した沖縄の歴史を,人々に記憶され続けていくことを願っています。そして沖縄の人々が幸せになっていくことを念じています。」
 そう言った後、天皇は次の言葉を加えた。「また,この沖縄復帰の日は,今から70年前,犬養総理を海軍の将校らが暗殺した五・一五事件の起こった日でもあります。短期間ではありましたが,これまで続いた政党内閣は,この事件をもって終わりを告げ,その後政党内閣ができるのは戦後のことになります。」
 この言葉は明らかに、昭和の初期、歯止めなく戦争に突入していった日本への痛烈な悔恨の情を含んでいる。ふと気になりだし、これまでの天皇の言葉を読んでみると、張作霖事件、盧溝橋事件、五一五事件などが頻繁に登場する。天皇は、戦争を阻止できなかった昭和初期をしっかりと意識して検証していることに疑いない。
▼さらに、昨年の会見ではワールドカップ開催にふれてこう述べている。
 「韓国は,日本にとって非常に近い国です。対馬からは,釜山の灯が見られると聞いています。このような隣国との関係は,非常に大切であり,友好関係を増進していくことが非常に重要と考えます。歴史的に見ても日本書紀では,当時の百済などの国との交流が,非常に詳しく記されています。今日に至るまでの長い交流の歴史は,いろいろな場合がありますが,その歴史をしっかり認識し,その上に立ってこれからの両国の友好関係を築いていくことが大切と思います。やはり,ここで忘れてならないのは,この日韓ワールドカップの共催ができるような状況になったということだと思います。それまでに,戦後の厳しい状況にあった両国民の,両国の関係をこの共催ができるまでに作り築き上げてきた人々のことをこの機会に忘れてはならないと考えております。」
 
なかなか真摯な言葉だと思う。続いて、さらに前の年の誕生日会見の言葉を読んで驚いた。
ワールドカップ共同開催への期待を天皇は次のように表現した。
 日本と韓国との人々の間には,古くから深い交流があったことは,日本書紀などに詳しく記されています。韓国から移住した人々や,招へいされた人々によって,様々な文化や技術が伝えられました。宮内庁楽部の楽師の中には,当時の移住者の子孫で,代々楽師を務め,今も折々に雅楽を演奏している人があります。こうした文化や技術が,日本の人々の熱意と韓国の人々の友好的態度によって日本にもたらされたことは,幸いなことだったと思います。日本のその後の発展に,大きく寄与したことと思っています。私自身としては,桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると,続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く,この時以来,日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。また,武寧王の子,聖明王は,日本に仏教を伝えたことで知られております。

 しかし,残念なことに,韓国との交流は,このような交流ばかりではありませんでした。このことを,私どもは忘れてはならないと思います。

 ワールドカップを控え,両国民の交流が盛んになってきていますが,それが良い方向に向かうためには,両国の人々が,それぞれの国が歩んできた道を,個々の出来事において正確に知ることに努め,個人個人として,互いの立場を理解していくことが大切と考えます。ワールドカップが両国民の協力により滞りなく行われ,このことを通して,両国民の間に理解と信頼感が深まることを願っております。」
 天皇が自らのルーツとして、朝鮮半島をあげたことは韓国の人々には意外なことで韓国マスコミでは「天皇のゆかり発言」として好意的に大きく取り上げた。聞けば、こうした会見の草稿は天皇自らが書くという。だとすれば、踏み込んだ言葉の数々からは天皇の真意が明解に読み取れるのである。70歳を前にした平成天皇は、戦争を阻止し得なかった父・昭和天皇の足跡を追体験しながらその罪に向き合い、父が残した負の遺産を自分の手で清算しようとしているのではないか。
▼こうした想念を、今年の初め酒席で仲間に漏らした。それを聞いた自称・知識人の後輩は、何を言っているのか?という眼差しを向け「天皇をそういった風に美化するのは軽率ですよ。天皇は機能しているだけですから」と返した。9・11後のアメリカを非難しつづける一方で簡単に天皇を賛美するこのオジさんのレベルの低さを軽くあしらって話を次に回した。
▼確かに近代日本での「天皇」という存在は機能でありシステムだと私も思う。明治天皇は日本が近代国家へと離陸するための起爆剤だった。天皇を絶対権力をもつ現人神とし、その下の国民を四民平等とした考え方は、帝国主義時代にあった当時の世界情勢に歩調をそろえたものだった。吉田松陰らのしたたかさは、天皇という存在を一つのシステムとしてリアリテイを与えたことにあると思う。そして、この近代天皇のシステムを見事に具現したのが明治天皇という個性だった。(詳しくは8月14日の記述を参照)
▼明治初期このシステムは成功するが、日露戦争後、軍部の肥大と文民の無作為の中で、歪に拡大解釈され、昭和天皇はなす術もなく戦争へ突入していった。日本が国際連盟を脱退し決定的に世界から孤立する年に平成天皇は生まれた。敗戦後、米国は、11歳だった皇太子(平成天皇)に敬虔で穏健なクエーカー教徒の米国人女性エリザベス・バイニング夫人を家庭教師に任命した。彼女を通して米国は徹底した民主化教育を皇太子にしていったにちがいない。
▼終戦後、米国はその理想主義の面を前面に出し、日本を変えようとした。そして日本国憲法を編み出した。この憲法が誕生する同じ時期、皇太子は米国から理想的な民主教育を受けていた。この意味は大きいと思う。生まれた新憲法では天皇は象徴とされ、新たなシステムとして機能することを義務付けられた。この「象徴」としての天皇の立場をもっとも切実に受け入れたのは、昭和天皇ではなくその息子である皇太子、平成天皇ではなかったのか。

▼ 北朝鮮、イラク戦争にゆれ、自衛隊の派遣に揺れる年の瀬、平成天皇が誕生日にどのような言葉を発するのか注目した。平成天皇は今年70歳の古希を迎えた。まず、70歳の人生を振り返り、300万人もの犠牲者を出した戦争、そして戦後の大災害で亡くなった人の具体的な数を上げ悼んだ。国民の苦しみの軌跡を前面にだした回顧であった。
▼ この会見で、平成天皇が父親の失敗を強く意識し即位してからの15年をすごしてきたを物語る発言があった。

 「・・・・・・・・現在の日本はこのように様々な面で厳しい面がありますが,それを昭和元年から15年までの期間と比べるとき,平成の15年間は,自然災害には誠に厳しいものがありましたが,比較的平穏に過ぎた15年であったということをしみじみ感じます。この15年間を支えてきた人々に深い感謝の念を抱いています。

 昭和の15年間は誠に厳しい期間でした。日本はこの期間ほとんど断続的に中国と戦闘状態にありました。済南事件,張作霖爆殺事件,満州事変,上海事件,そして昭和12年から20年まで継続する戦争がありました。さらに昭和14年にはソビエト連邦軍との間にノモンハン事件が起こり,多くの犠牲者が出ました。国内では,五・一五事件や二・二六事件があり,また,五・一五事件により,短期間ではありましたが,大正年間から続いていた政党内閣も終わりを告げました。この15年間に首相,前首相,元首相,合わせて4人の命が奪われるという時代でした。その陰には,厳しい経済状況下での国民生活,冷害に苦しむ農村の姿がありました。そして戦死者の数も増えていきました。皇太子時代に第一次世界大戦のヴェルダンの戦場の跡を訪ねられ,平和の大切さを強く感じられた昭和天皇がどのような気持ちでこの時期を過ごしていらっしゃったのかと時々思うことがあります。私どもは皆でこのような過去の歴史を十分に理解し,世界の平和と人々の安寧のために努めていかなければならないと思います。・・・・・・」

 平成の日本の15年間を、父の歩いた昭和の15年に思いを馳せながら語る平成天皇の脳裏に、深い憂鬱を感じるのは私だけだろうか。             (つづく)

                          2003年12月23日