仏の座 12月30日
ホトケノザ(仏の座)/シソ科の一年草。別名をサンカイグサ(三階草)、ホトケノツヅレ(仏の綴)、カスミソウ、クルマソウ。小川の南向きの土手に、赤紫のサルビアのような花を咲かせる小さな野草。ホトケノザの名は、対生してつく丸形の葉や、その葉が頂葉では幾重にも重なって、恰も仏の座、蓮台を連想させることからつけられる。サンカイグサ(三階草)という別名は対生する葉が立ちあがる茎に段上につくところからついた。ちなみに春の七草の一つに「ほとけのざ」があるが、これは正確にはキク科のタビラコのことで別のもの。
▼父の四十九日の法要のため、妻と三男を連れて帰郷した。法要の前日、時間があったので三人で映画を観にいった。韓流ドラマにすっかりはまってしまった妻の希望で韓国映画「僕の彼女を紹介します」を観ることになった。大ヒット作品「猟奇的な彼女」の監督クアク・ジェヨン、主演チョン・ジヒヨンのコンビで創られたコメディありサスペンスあり涙あり、娯楽映画の、持ち味を全て出し切った秀作であった。詳しいストーリーは置いておくとして、この話には四十九日がフレームとして取り上げられている。悲しい事故で彼氏を失ったジヒョンは、なんとしても四十九日以内に彼氏に会うと決意する。仏教では死亡してから7週間(49日間)は死者の霊は現世とあの世をさまよっているとされている。この考えを導入することで、物語に緊張を与えた。韓国が日本と同じ仏教の国であり、現在の日本以上に人々は仏教的な考え方を自然に受けいれていることを実感した。今、韓国の映画やドラマに日本の人々がはまっていくのは、そこに郷愁を感じるからなのだろう。
▼初七日以来、郷里で母は7日目ごとに法要をおこなってきた。九州から叔母が来て共に供養に加わってくれたものの、毎日、涙が枯れるほど泣いて過ごしてきた。母は家の中に今も父の気配を感じ父と会話しながら暮らしている。その一途な姿に改めて、自分の母の性分を知った。
▼その淋しい家に息子達が妻や孫を連れて帰ってきた。母は叔母と一緒に実に愉しそうに皆を歓待した。そのはしゃいだ姿を見ると、天の邪鬼な長男である私は決まっていたたまれなくなり逃げ出したくもなる。いつもこうした愛情に耐えられなくなって家を飛び出してきた。
▼賑やかな宴を離れ、父が使っていた部屋に入りベッドに横になった。父は私に命令したことも私を厳しく叱ったこともない穏やかな人だった。いつもオロオロと私のことを心配してくれたが抽象的な言葉を駆使して人生訓を押しつけるなどということはなかった。その父が10月、闇の病床で突然、私の息子ことを話し始めたことがある。「あの子は本当に良い子だ。優しい子だ。心配することはない。大丈夫だ。」 「大丈夫だ」という言葉に胸をつかれる思いがした。
▼息子が小学校6年生まで私たちの親子関係はうまくいっていた。阪神・淡路大震災の取材に出かける時、息子は「おやじ気をつけて。」というメモを渡してくれる優しさを示してくれた。それがいつから息子との回路が途絶えたのか。妻は、あのいじめ事件がきっかけだとあっさりと言う。6年生の終わりの頃、息子の級友の親が、「うちの子供がお宅のお子さんにいじめられている。」と言ってきた。息子は優しい心根の子なのでそんなことはない、と妻も私も思った。以来、妻は一貫して息子を弁護した。しかし、私は違った。無為の親友に傷つけられる事ほどつらいことはない。息子の何気ない言葉や行動が予想以上に親友の心を傷つけたという可能性もある、と思うようになった。
▼もう35年以上も前になるが、変声期に入った中学生の頃の私の声は、裏声と蛙をつぶしたようなダミ声ガ入り交じりどうにも統率がとれなくなった。それを親友Sが笑った。その瞬間から私は人前で話すことができなくなった。学校でも家庭でも全く口を閉ざした、というより声がでなくなったのだ。当然、皆からからかわれた。「おい、しゃべってみろ。」とはやし立てられいじめられた。1年間くらい続いたその頃のもどかしくやるせない感覚は今も時折夢で味わう。だからなのか、間接的にだが話を聞けば聞くほど我が子の弁護だけに走ることはできなかった。息子はある場面で、その他大勢の諸人の中に入り、親友がからかわれるのを黙って見ていたのではないか、その時、自分をかばってくれるはずの親友がその他大勢の中に埋没してしまったのを見てその子は深く傷ついたのではないか・・・・ある時、私は息子を問いつめた。そして何気なく発した言葉も人を痛く傷つけることがある、言葉も暴力になることがある、などと綿々と人生訓をたれた。その言葉の連射が長男を傷つけてしまったのだと妻は言う。確かに、この時以来、息子との回路は途絶えた。
▼一度、途絶えた回路はなかなかつなぎ合わせることはできない。それ以来、私は何度となく息子の前でキレた。そのいずれもが私に非があった。私はただただ感情的に激昂し溝を深めることしかできなくなった。
▼最近、私の弟から、私がしゃべらなくなった時、どんなに両親が悩んだかを聞いた。しかし、当時、父は私には何一つ云わなかった。。おそらく、オロオロ心配しながらも黙って様子を見ていてくれたのだろう。そのうち、私は黙って励んでいたバスケットボールでレギュラーになったのを契機に、だみ声も気にならず大声をだせるようになった。
▼私も、あのころの父のようにオロオロと黙って、わが息子がハードルを乗り越えていくのを見ていれば良かったのかも知れない。おとうさんはあくまでもお前を信じている、と態度で示してやればよかったのかもしれない、後悔するが、一度 堰を切ってしまった水はもう元に戻ってこない。
▼病床の父は、そんな私と息子の関係を見越したように「大丈夫だ。あの子は優しい子だ。」と言って微笑んでくれた。父の前で声を出して泣いたのはあれが最初で最後となった。
▼四十九日の法要の朝、カメラを持って家の近くを歩いた。キンセンカの橙色が光を浴びていた。近づいてみると、その花の横に、小さなホトケノザが寄り添うように咲いていた。キンセンカへの興味が不思議に薄れ、そっちに関心が移った。このか細い野の花に父の気配を感じた。
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