口実         6月12日

▼山口県防府市、瀬戸内海を望む山の中に、東大寺別院の阿弥陀寺という寺がある。建てられたのは文治3年(1187年)という古寺である。昨日、母とこの境内を歩いた。鬱蒼とした緑の参道のあちこちに、宝石のような紫陽花が台風の去った後の青い光に眩しく反射していた。

▼昨年、父が大病を煩ってからというもの、頻繁に帰郷するようになった。「後悔しないようにできるだけ頻繁に帰ったほうがいいよ。」尊敬するK先輩の言葉で何かが吹っ切れた。
▼故郷の静かな町の佇まいや時間の流れ、そこを通り抜ける一塵の風の流れの中にくるまれることほど、安心することはない。高校時代、友人や近隣の人々と話すことには鬱陶しいものを感じても、一人で町をぼんやり歩く時には言いしれぬ安心感を取り戻した。その安心感は父や母の愛情にくるまれている感覚と同じだった。ふと思ったものだ。「このままずっと、この町にとどまっていると自分は自立できずに赤子のような甘い大人になってしまうのではないか。この町を出なければ自分がだめになる」 ブルートレインあさかぜに乗って上京、東京の大学を受験したのも、あえて、そういう安心感から自分を切り離してしまいたかったからだ。受験に失敗しても故郷に帰らず一人で下宿を探し東京の予備校に通った。それから30年、いまもなぜか故郷に対する思いはぎこちない。故郷は自立と対局にある甘すぎる空間だ。


▼町から車で1時間半の場所にある大学病院で治療を受けた父を実家に連れ帰るために、昨日は帰郷した。なにか事あるごとにすぐに帰る。この繰り返しの中で、故郷に対する気負った思いが一気に薄れていく。空いた時間、カメラを持って、田圃の畦道や昔ながらの路地を再訪し、かつての言いしれぬ安心感に浸っていても、「それでもいいではないか。もう気を張る必要はないよ。そんな年でもないのだから」と甘えた

る自分を許す余裕がある。 故郷に対する複雑な気負いは消えつつある。30年ぶりに故郷の風景が自分の日常になりつつある。


▼この30年、全国各地の風景を見た。そして再び、故郷の阿弥陀寺に舞い戻ると、この小さな古寺は他に引けをとらない見事な風情に溢れていると実感する。その価値が改めてわかる気がする。寺を建立したのは、名僧・俊乗房重源上人である。重源上人は世界最古の木造建築物・東大寺を再建したことで知られる。

▼治承4年(1,180年)、平の清盛の命により平の重衡(しげひら)は奈良の都を焼き討ち、総国分寺東大寺は焼失する。後白河法皇は、これを憂い再建を発起した。鎌倉幕府に再建を願い出で、その大勧進(再建役)に重源を任じる。重源(1,121〜1,206)は、山城の国生れ、父は紀の季重(すえしげ)、幼名重定。長承2年(1,133年)12歳で宇治醍醐寺に入門、俊乗坊と名乗り黒谷源空(後の法然上人)に師事、長じて師の1字をいただき重源と称した。
▼鎌倉幕府は再建の意を入れ、源頼朝は造営料国(東大寺再建用材供出国)を周防の国とした。それが私の故郷である。重源は、文治2年(1,186年)、造営料国の決定により源平の争で荒廃した周防の国に国司兼大勧進として宋の人陳和郷、物部為里、桜島国宗ら10有余名と共に船で下向、周防勝間の浦に上り国庁に入る。
▼着任するや、佐波川添いに道を作り、橋を架け、堰を設け上流に進み得地(現徳地町)に入り幾多の困難にもめげず用材を調達、佐波川を通し海路奈良に送る。わが故郷の山河が生み出した樹木によって、建久6年(1,196年)東大寺は再建された。

▼重源も、周防の風景になにか安心した空気を感じ取ったのであろう。この地に来た翌年、敬愛する後白河法皇の現世安穏を祈願して、みずから鍬をとって阿弥陀寺を建立した。しかし最愛の後白河法皇は、重源が東大寺再建を果たす3年前に逝去した。奈良から遠く離れたこの地で重源はどのような思いで法皇逝去の知らせを受け取ったのだろうか。




▼紫陽花に埋もれた境内を母と歩く。父のことで気ぜわしくはなったが、こうして緑の空気の中を歩くと、つかの間の安心を手に入れることができる。おそらく母もそうであろう。ふと思う。父の病を口実に私は、この安心を手に入れたいために何度も帰郷しているのだと。








                      2004年6月12日