ある高等遊民のあまりに純文学的な一生

                6月26日

アリストロメリア/以前はヒガンバナ科だったが、最近アルストリメリア科として独立した。リンネが友人のスウェーデンの植物学者アルストレメールの名に因んで名付けた。特徴は、葉の表裏が逆になっているところ。原種は、チリの砂漠やアンデス山脈の4000mクラスの高所に生存。英名は「インカのユリ」という。日本では1970年代に入り、「ゆりずいせん」の名前で親しまれるようになった。現在、日本で栽培されているものは、オランダの種苗会社が登録したパテントのもののほうが多い。花言葉は「やわらかい気配り」「凛々しさ」「人の気持ちを引き立てる」

▼いつも冷静沈着な同期のKが慌てた表情で私の職場に現れた。「高野、知っているだろ。」  言われて思い出すのに少し時間がかかった。「ほら、アラビア語の・・・・」 それを聞いてようやく顔が浮かび上がった。
▼偶然の重なりで放送局に就職したものの人付き合いをスムースにこなす自信はなかった。気まずい沈黙の中にいるとハスキーな声で話しかけてくれたのが高野だった。陽気にはしゃぐ仲間の渦の中、ポッカリとした沈黙の中でポツリポツリと話をした。高野は外語大を卒業してアラビア語の専門家として入社した。自分も人付き合いが苦手だったが学生時代にカイロに留学しイスラムの人々のおおらかな人生観に接して自分も楽になった、と語ってくれた。イスラムの中にスンニ派とシーア派があるのを教えてくれたのも彼だった。
▼高野昌弘。研修所からそれぞれの職場に散ってからはたまに社員食堂で見かけることはあっても長く話す機会はなかった。高野はラジオの国際放送の制作をしていた。そして突然、入社7年後の春、退職した。退社するとすぐにカイロにわたった。一度、手紙が来た。いきいきとした手紙だった。おそらく学生時代自分を解放させてくれたカイロで、再び自分を取り戻しているんだ、と思った。その手紙以来、お互い音信不通となっていた。
▼「きのう、高野が亡くなった。」 Kが言った。Kは最近まで高野と連絡を取り合っていた。高野は日本とエジプトを行き来しながら、この数年は青梅市の実家にこもり、一人でアラビア語辞典をつくることに没頭していたという。会社を辞めた後も定職につかず結婚もしていない。たった一人でアラビア語に向き合う人生だった。その生き様をかつてアエラという雑誌が取り上げた。「平成の高等遊民 あまりにも純文学的な生き方」というのがそのタイトルだった。最近、Kに届いた葉書には「広告業界との癒着に憤慨し新聞をとるのをやめました。ますます頑固で偏屈なおやじになっています。」と書いてあったそうだ。週に5日間は午前9時から午後3時まで机にかじりついてアラビア語と格闘した。たった一人の辞書づくり、完了すれば再び中東を歩きたいと語っていたという。その矢先の突然の死だった。台風が通過したあとの暑い日、テニスコートで気分が悪くなり倒れたという。
▼遅れていった通夜、壇上に置かれた肖像写真は昔より引き締り凛々しかった。自分のやるべきことをしっかりと持ち、煩わしい他人との関わりにもまれて妥協することもなく、我が道をゆく“高等遊民”の風情があった。 「おー来ていたのか。」 Kが近寄ってきた。まわりに同期が数人いた。

草のにおいのする青梅の駅のホームで電車を待ちながら、
「辞書はいつできる予定だったのかな。」  誰かが言った。                 

                      2004年6月26日