メモリアル            7月11日

▼ワシントン出張は数日、ゆっくり街を歩く時間はない。その中で昼間の3時間あまり、自由になる時間ができた。さっそくドライバーのハンさんに連絡をとった。スミソニアンや様々な歴史博物館など見るべきところはいろいろあるのだろうが、その中に入ることをやめ屋外のメモリアルを駆け足で回った。
▼まず行ってみたかったのが、今年の5月オープンしたばかりの第二次世界大戦メモリアルだった。リンカーンメモリアルとワシントンモニュメントを結ぶ東西の公園の真ん中に建てられた。真ん中の噴水をはさんでAtranticとPacificと名前のついた塔が建てられている。石に刻まれた4000個の☆(一つで10人)がこの戦争で犠牲になった人々の魂を表している。暑い盛りの昼下がり、噴水で遊ぶ子供達の姿が賑やかで明るい声が響き渡っていた。入り口にはこのモニュメントを造ったブッシュ大統領が刻まれている。ブッシュはここに名前の残すことができた。記念写真を撮る気力は沸いてこなかった。
▼次に全米日系米国人記念碑。2001年6月から公開されたモニュメントである。思っていたよりずっと狭いスペースにひっそりとそれはあった。有刺鉄線にからまった鶴のブロンズ像を中心に周囲の壁には全米10カ所の強制収容所の名前と収容人数が記され、さらにヨーロッパ最前線で戦死した800人の日系人の名前が刻まれていた。終戦から43年たった1988年8月レーガン政権は、はじめて国としての過ちを認めて日系人に対して謝罪と賠償がおこなわれた。繁栄とバブルに浮かれた当時の日本のマスコミはこの句読点を大きく伝えることはなかった。噴水前の縁にレーガン大統領の言葉が刻まれていた。「Here We Admit A Wrong Here We Affirm our commitment As A Nation to Equal Justice Under the LAW」 (われわれは過ちを認める。国として法のもとでは平等であることを断言する) 噴水の前でホームレスが数人寝ている。碑の前に日系人だろうか、老人と若者が刻まれた文字を見入っていた。
 

▼そのメモリアルの前には14年前と同じ、長い列ができていた。ベトナム戦争戦没者 慰霊碑。1965年の北
ベトナム爆撃から1975年の米軍撤退までの10年間にわたるベトナム戦争の犠牲となった5万8000人あまりのアメリカ人を慰霊している。長さ150メートルの黒い御影石の壁には、犠牲となった男女の名前が年代順に刻まれている。その文字をゆっくりと探るように見入る人々の姿は14年前に訪れた時と全く変わらない。
碑の横には電話帳のほどの厚さの索引帳がある。慰霊碑に刻まれた人々の名前がアルフアベット順に記載されている。虫眼鏡で名前を探し出し、目指す人の名前が慰霊碑のどのあたりにあるのか目安をつけ、長い列の中に入る。。

▼ベトナム戦争はアメリカの威信を大きく傷つけた。その傷は歳月の流れに押し流され癒えることなどないのだ。碑の前にには花や生前故人が好んだものが置かれている。
星条旗を基調にしたデザインの小さな熊のぬいぐるみが置かれていた。その横に添え書きがあった。「私はもう一度あなたを見つけるために、ここに立ちました。そして、あなたの名前を見つけ出しほっとしています。かつて私が愛し共に生きようと誓ったあなたが、家族のために祖国のために私の知らない世界で紡いだ物語は、どんなに深遠な啓示に溢れていることでしょう。今回、私は子供達を連れてここに立っています。私は子供達にあなたの物語をどう伝えていけばいいのでしょうか。・・」
▼ しばらく人々の流れを見ていた。その留まることにない流れを支配しているのは悲しみだけではない。“自由陣営の盟主”として戦い続ける国家への誇りと自尊心が底を深層水のように流れているのが見える。人々をベトナム戦争の泥沼へと突き落とした最初の大統領はケネディだった。そのなし崩しの武力介入が、やがては5万8000人もの若者の命を奪うことになったのだ。しかし、人々は今、声を荒げてケネディをすることはしない。そして再び「自由と民主主義」の名のもとにイラク戦争に突入したブッシュを圧倒的支持で支えた。国家の決断に対して盲目的に追従する脆弱さがこの国民にもある。それが多民族国家のアキレス腱でもある。自由を求めてこの国にやってきた移民の人々にとって、アメリカという国家の大儀である「自由と民主主義」は、跪く以外にない十字架なのだ。メモリアルにあふれたこの公園の一角に次に建てられるのはイラク戦争メモリアルなのか、それとも第3次世界大戦メモリアルなのか・・・・・・。
▼短い観光の最後に見ておきたいメモリアルがあった。ハンさんもすぐに了解しハンドルを切った。国防総省ペンタゴン。テロリストを乗せた旅客機が突っ込んだ低い壁面を車越しにみる。ベージュの新しい壁面の前にもう一つの防御壁ができていた。
▼2002年9月11日、世界が碇を引きちぎられ、荒海に漂流を始めた日だ。ペンタゴンの回りを1回り再び激突面方向に来たとき、その前の草むらに黄色い野花の群生を見つけた。無理を言って車から降りて、草むらに入った。黄色い花は「ミヤコグサ」の一種のよに思う。花季が少しずれているようにはおもうが花の形が烏帽子に似ているので都草の一種と考えることにした。
                            日本の京都に多い多年草の野花なのでこの名前がついたミヤコグサ、ワシントンという都にもよく似合う。おそらく二年前の911のその時刻にも、この野花の茎はぎっしりと根をはっていたにちがいない。一瞬真っ黒焦げになった大地に再び根を張る、この無国籍の野花を、わが9・11メモリアルの塔としよう。そう思ってレンズを代えて一枚シャッターを切った時、「おーい」とハンさんの良く通る声が響いた。振り向くと、ハンさんの車のまえにパトカーが横付けされ、そこから巨漢の警官がのっしりと現れ、こちらに向かっていた。・・・
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▼ わずか数時間のつかの間の観光だったがそれなりに充実感があった。
10数年ぶりのワシントン、忙しく案内してくれた北朝鮮出身の74歳のドライバー、ハンさんにお礼を言って車を降りた。「また会いましょう。」「そうだね。10年後にね。」 機転の利いた言葉を返してくれたハンさんの笑顔が爽快だった。


                      2004年7月11日