アウエイ      731


ルドベキア/キク科ルドベキア属 原産地は北アメリカ。別名はオオハンゴンソウ/ブラックアイドスーザン/マツカサギク/コーンフラワー。ルドベキアの代表種オオハンゴウソウ(大反魂草)は、花が大きく、花びらがそり返りぎみに開く花姿に由来。
花言葉は、正義、公平 正しい選択

▼中国・四川盆地の東南、長江と嘉陵江の合流点にある重慶市は人口3200万の大商工業都市である。この急成長を遂げるマンモス都市がサッカー・アジア大会の会場となった。「重慶か。大変な場所で試合をするんだな。」と思ったのは、重慶と姉妹都市の広島の市民くらいではなかったのか?何も気にせず応援にやってきた日本人サポーターは、重慶スタジアムの異様な熱気に呆然とすることになる。日本に対する悪意に充ちたブーイング。君が代斉唱にいたってはテレビの前にいる視聴者ですら逃げ出したくなるような罵声がスタジアム中にこだまする。なぜ、これほどまでに?首をかしげる日本人サポーターの姿が痛々しい。
▼日本選手団が重慶に入る数日前、現地の新聞に次のような記事が掲載された,。

「 旧日本軍による「重慶大爆撃」に対する賠償請求訴訟の原告団はこのほど、重慶市渝州中小企業法律サービスセンターと業務委託に関する合意書に正式に調印し、重慶に対する5年にわたる野蛮な爆撃について日本政府を起訴し、民間被害者への賠償を求める中国側弁護士団の組織を委託した。 ・・・・」
    (「人民網日本語版」2004年7月14日 )

▼ 重慶大空爆は、20世紀の戦争の性格付けを決定的にした。日本軍の空爆は1939年から2年半にわたった。軍事施設をねらった空爆はそれ以前にもあったが、市民生活を大きな打撃を与えた空爆という意味で、この空爆は大きな意味を持っている。同じ時期(1939年4月26日)ドイツ空軍「コンコルド軍団」がスペイン北部のバスク地方の街、ゲルニカを空爆した。これが世界最初のいわゆる「無差別爆撃」かもしれない。しかし、それから一週間後(1939年5月3日)に始まった重慶空爆は、ゲル二カ空爆が一回なのに対し、2年半、218回繰り返された。
 「この殺戮に関して重大なのは、敵のテロの目的である。南京と上海はすでに爆撃されていた。しかしそれは軍事上の目的だった。それに対し、重慶の古壁の中には、軍事目標は何一つなかった。にもかかわらず、日本軍は、重慶を灰塵と化す対象に選んだのだ。そして、彼らが理解し得ない精神を挫き、政府の抵抗を打ち破ろうとした。その後、わが軍が日本軍を攻撃するようになっても、私はいささかも良心の呵責を感じなかった。無分別なテロであった重慶爆撃は、私の政治観に直截かつ根源的な影響を与えた。」(重慶爆撃の時、現地にいた雑誌『タイム』特派員セオドア・ホワイトの証言)

▼重慶爆撃でみせた、大空爆という日本軍の行動様式は、そのままアメリカ軍に模倣され、数年後に東京大空襲・大阪大空襲、広島・長崎への原爆投下へと連なる。そして、今もアフガン・イラクで同じことを繰り返している。


▼おそらく半世紀前は瓦礫の焦土の近郊にあった、重慶スタジアム。ピッチに立つ日本イレブンに怨念のブーイングが投げつけられる。この最悪のコンディションで、初出場のヨルダンと戦った日本は、強靱な精神力を見せた。そして、まさに奇跡ともいえる大逆転劇を紡いでみせた。
▼試合はヨルダン優勢で進み日本が食い下がり延長戦を終えて1対1の同点、PK戦に入った。しかし、中村俊輔、三都主ともに荒れた芝生に足をとられてまさかの“大ホームラン”でゴールを大きくはずしてしまった。あー、これで終わりかと思った。歓喜する悪意のスタジアムに飲まれてしまい選手達は意気消沈し重慶の怨念が半世紀にわたって日本に取り憑いているんだ、とテレビの前で勝手に納得していた。
▼その時である。DFの宮本が主審に詰めより何かを主張しはじめた。そして、それに頷いた主審はゴールを反対側に変えると異例の決断をしたのだ。PK戦がはじまる前、「こちらのゴールはコンディションが悪いので反対側にすべきだ。」と宮本は主張したが受け入れなかった。二人の選手が同じように滑ってゴールをはずしたのを見て再び、宮本は主審に主張した。主審はその熱意に負けたようにゴール変更を宣言したのだ。スタンドは当然、騒然となった。しかし、このブーイングの嵐も宮本の毅然とした態度に吸引されてしまったかのようだった。ミラクルはここから始まった。宮本の気合いがゴールキーパー川口に乗り移ったように、川口は次々とヨルダンのシュートを止めて絶体絶命からチームを救い出し、奇跡の大逆転を達成した。
▼その勝利の瞬間、大ブーイングのスタンドは静まりかえった。そしてため息に変わった。改めて確認する。スタジアムの観客はほとんどが日本に負けてほしかったのだ。その様子を中継で見ながら、今、日本チームは、本当のアウエイでの勝利の味をかみしめているにちがいないと思った。欧州サッカーではホームグラウンドでの試合が圧倒的に有利で、敵地アウエイでの勝利は難しいという。それはそれぞれの場所が複雑な歴史の妖気を孕み、外敵と戦ってきた時間の蓄積を抱え込んでいるからなのだろう。中国は日本にとってのアウエイそのものなのだ。
▼例えば、「重慶空爆を中国ではどう教えているのか?」という講座を設けて今、しっかりと教えている日本の学校はどれだけあるのだろうか。それに比べて中国は徹底して日本軍への抗戦を教え込む。(参考:2003年10月31日「バルザックと小さなお針子」)このどうしようもない認識のズレが活断層のように双方の市民の間に横たわっている。日本の教育は、今、「日中戦争は中国でどのように教えられているのか」、「太平洋戦争はアジアでどう教えられているのか」、というテーマを正面から冷静に事実は事実として取り上げなければ、重慶スタジアムのように若者を身動きのとれない袋小路に追い込んでしまう。こうした問題をいかに多角的に若い世代に伝えるか、その方法論を生み出さなければならない。誤解のないように記しておくが私はいわゆる「左」でも「右」でもない。事実を、第三の視点で整理して、若い世代に伝える術を作っておかなければ、いつまでたっても、こうした問題をさわるたびに、「中傷」の感情論に巻き込まれ、何も次へと進んでいかない。

▼重慶スタジアム。この最悪のアウエイで勝利するには宮本が示したような毅然としたフエア・プレイしかないのだと痛感させられた。
 今日の花、ルドベキアの花言葉は「正しい選択」、宮本選手に贈りたい。

                      2004年7月31日