一握の砂    10月24

オキザリス/カタバミ科カタバミ(オキザリス)属
別名、はなかたばみ。原産地は中南米、南アフリカ。日本では、紫かたばみ等帰化植物になっている種類や、かたばみ等の雑草もある。
花言葉は、決してあなたを捨てません・輝く心
        
▼オキザリスの花に光が差し込む。それまでうなだれていた長い筒の花弁がすばやく起きあがると、その中心に向かって奥深く、光が吸い寄せられていく。オキザリスに目を奪われるのは鮮やかな赤紫の花弁ではなく、光をどこまでも招き入れるその中心の輝きだ。

また父の話からはじめたい。精神混沌の中でひたすらなにかをしゃべりつづける父が突然、詩の一説を口にしはじめた。
  「ふるさとを出で来し子等の相会ひて よろこぶにまさるかなしみはなし」
  「石もて追はるるごとく ふるさとを出てしかなしみ 消ゆる時なし」
  「たはむれに母を背負ひてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず」
  「いのちなき砂のかなしみよ さらさらと 握ればあひだよち落つ」
  「しっとりと なみだを吸える砂の玉 なみだは重きものにしあるかな」・・・・・
 
思いつくままに投げられる句は石川啄木の「一握の砂」。青春期、すべてをそらんじているくらいの啄木の信奉者だった。昭和10年代の日本は富と貧困の二極化が著しくなっていた。筑後平野の農家に生まれ幼いころに両親を失った父はその一方の極、貧困の中の閉塞感の中にいた。彼らは貧しさから抜け出すために満州に夢を追い、食いつないでゆくために軍隊に志願した。その傍らに啄木を置いた。啄木の言語は当時の若者たちの心内を切実に代弁した。
▼NHKスペシャルの年間シリーズ「データマップ 63億人の地図」は今月、中国にひろがる都市と農村の格差を正面から取り上げてた。番組はまず、上海市の中心から車で30分、“富人区”と呼ばれる高級住宅地を紹介する。日本円にして平均2億円、10億円を超える豪華な邸宅が並ぶ。住宅地の中にはゴルフ場もある。子弟の多くは「貴族学校」と呼ばれる私立学校に通い、10歳にも満たない子が「将来はハーバード大学に入る」と宣言する。その一方で、取材班は上海から内陸へ1800キロ、標高2000メートルの山間にある小さな村に向かう。村には水道はもちろん井戸もない。雨水をタンクに貯めて生活している。村人の年収は平均1万円。優秀な子供を大学に入学させるための数万円の金も集められない親の苦悩が映し出される。この都市と農村の驚くべき格差の実態を番組は実にシャープに詳細に描き出していた。
▼番組を観ながら、数日前、食事をしたYさんの話を思い出していた。Yさんは中国人で10年前に来日して以来、映画や番組づくりをするプロダクションを経営している敏腕女性プロデユーサーだ。彼女は、最近の中国での反日運動の背景には、この大きな生活格差があると分析した。日本の大手自動車メーカーが、中国国内でのコマーシャルで、新車が軽やかに中国車を追い抜くシーンを映し出したら一斉に攻撃を受け、その日本の自動車メーカーが謝罪し急遽、コマーシャルを取りやめる事態にまで発展した。ある大学教授が台湾を訪ねた時の話として、「台湾ではアニメやフアッションなど日本の文化が浸透している。日本文化にもいいところがある。」と発言するとこれも激しい非難をうけラジオで謝罪するはめになった。日の丸に似た水玉模様でフアッションショーに出たモデルも同じ目にあった・・・・・最近の中国では、この種の話は絶えないそうだ。Yさんは、この激しい反日運動の背景に中国内の貧富の格差がある、と分析した。「その格差の不満をどこにぶつければいいのか、政府にぶつけることができない中国の人々の不満を反日運動という形で吸収しているのです。」Yさんの説には説得力があった。戦前の日本は、その不満のはけ口として満州を用意し軍にその負のエネルギーを吸収した。今のアメリカも軍に志願する若者の多くは、生活の安定しないマイノリティーだ。マイケル・ムーアが「華氏911」で描いたように戦場でいく若者には、ホワイトハウスに通う男達の子弟はいない。世界で急速に進むこの格差が、想像力の活断層を生み出し誤解と詮索につながっている。
▼病院から故郷の自宅に二日ばかり父を連れて帰った。最初は大喜びした父もすぐに体力を消耗したようで再びベッドに横たわり、幻想の中に入った。出てくるのは、貧しさにあえいだ子供時代の思い出ばかりだ。父のルーツはそこにある。
▼父の横で、テレビの画面を所在なくみていると、夕方6時前、新潟県の中越地方で震度6強の大地震が立て続けにおこったという速報がはいる。それからすぐにテレビは地震情報に切り替わった。その夜、どこまでも続く父のうわごとを聞きながら、テレビ画面を見て過ごした。翌朝、朝靄の中を行くヘリコプターが映し出した被災地の風景は予想どおり深刻だった。寸断された道路、脱線した新幹線、孤立した山間の集落・・・・そこには身動きできない高齢者がマスコミの視野にも入らず孤立しているであろう。過疎地を襲った大地震が忘れられかけた日本の現実を露わにする。
▼露わになった現実の風景、その背後で父のうわごとは相変わらず続いている。どうしよもないもどかしさと閉塞感、寂寥感、そして孤独感・・・啄木の詩が再び聞こえる・・・・
                      2004年10月24日