震度7の里
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月27日

▼大根が一斉にまっすぐせり上がって抜けてしまっている。これが山里を襲った震度7の直下型地震の現実だ。
 新潟放送局の一年生ディレクターY君に案内されて、震度7の激震が襲った新潟県川口町の孤立集落を回った。
 寸断された道路を迂回して一番奥の木沢地区に入って、まずY君が紹介してくれたのがこのダイコン畠だった。その目のつけどころにセンスを感じる。地震発生以来、中継現場のアシスタントを務めながら、Y君はその間隙を縫って孤立集落を訪ね回った。この小さな集落でももうすっかり顔なじみになっていた。突然、親父のようなおじさんが東京からやってきて案内してくれというのだから気が重くなるのが普通だろうが、彼は実に冷静に自分が取材で歩いている現場を一つ一つ丁寧に案内してくれた。

























▼寒冷前線の影響で、里には昨夜から強い風と冷たい雨が降りそそいでいた。里の多くの人々が一ヶ月たった今も避難所暮らしを強いられている。昨年、廃校になった小学校が避難所に使われていた。村人達は昼間、それぞれの家に帰り、隣近所助け合いながら、冬への備えをしている。雪が降り始めるまでになんとか復旧の目処はつけておきたいという焦りからか、表に出て作業をする人々の間には熱気のようなものが感じられた。
▼雪が2メートルは積もるであろうこの山里で人々は1世紀近くを費やしてゆるやかな共同体を築いてきたが高齢化が進む中で歯が抜けるように人口が減っている。そこを襲った震度7の激震で、人々をつなぎ止めていた“たが”が一気にゆるんでしまったようだ、と里の人はY君に何度も訴えている。
▼今の時期は、里にとっては一番良い時期だったはずだ。収穫を終え人々はほっと一息、村祭りの準備に入ったところだった。その神社も祭りの知らせを伝えるビラをつけたまま倒壊していた。このまま放っておいたら、集落という単位が消えてしまうのではないか、そんな恐れから集落の人々は同じ避難所で共に暮らすことを希望している。阪神・淡路大震災の際、仮設住宅で吹き出た問題がさらに鮮明な形で早くも浮き出ている。

▼全壊した家を撮影していた。それを遠巻きに見ていた主婦と目があった。軽く会釈をすると、彼女は「おつかれさまです。」と笑顔で答えてくれた。バイクの音が響いて、郵便局員が手紙を持ってやってきた。手紙はその全壊した家宛ものだった。無惨な家の姿を前にして困った顔をした郵便局員に、後ろから「すみません。うちの手紙でしょうか。」と声がかかった。私が撮影するのを黙ってみていた主婦だった。突然ずけずけとやってきて私がカメラを向けた全壊の家は、彼女の家だったのだ。随分、軽率なことをしてしまった。もうしわけない、と謝ろうとしたが、彼女は笑顔で手紙を受け取り、再び背後に下がった。

















 ▼震災から一ヶ月後、今、被災者は何を一番求めているのだろうか。前夜、新潟放送局の数人の若手から意見を聞いた。毎日現場を歩く彼らは声をそろえて、「みんなは何か元気のでるものがほしいのだ」と言った。震災のあった翌日は高校の文化祭が行われる予定だった。それを実現してやりたい、闘牛の試合もおこなえないものか。恒例の年末の花火を今年もぜひ実現させたい・・・・・、そんな「被災地へのクリスマスプレゼント」のような企画はできないだろうか、と皆が口をそろえて提案してきた。若いディレクターが現場を歩きながら集めてきた被災者の要求は些細なことであっても皆の活力になる集いがほしいというものだった。そうした被災者の心に素直に反応する若いディレクター達の感性をすばらしいと思う。



▼半日以上、Y君を拘束し申し訳なかったが、息子と同じくらいの年齢の若者がこれほどしっかりと被災地と向き合っているということを知り、大いに勇気づけられた。
▼あわただしく礼を言って、新幹線に飛び乗った。山を越えると、それまでのどんよりとした空と強風が嘘のように、車内に光が射し込み青空が広がった。
現場から離れれば離れるほど人は鈍感になってゆく。
                      2004年11月27日