天に飛び立つ大樹     12月6日

ラクウショウ(落羽松)/スギ科の落葉針葉樹。別名ヌマスギ。北アメリカ東南部、メキシコの原産地。樹形は円錐形でメタセコイアによく似ているが、羽状の葉が、メタセコイアは対称につく (対生) のに対して、本種は交互につく (互生)。 湿地ではタケノコのような狭円錐状の膝根 (しっこん) と呼ばれる呼吸根を地上に出すことで知られている。 名前の通り耐湿地性に富むが、耐寒性にやや劣る。 樹高は原産地では50メートル、径2メートルのものもある。
▼黄金色の落羽松の下に立った。複数の羽が、まさに鳥の羽根のように風に舞った。その乱舞の中で、樹が天空に舞い上がる錯覚に襲われる。樹は黄金の翼を広げて飛び立とうとしているのだ。

▼この黄金樹の下に立つと決まって宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」のことを想う。
▼賢治は最愛の妹を1922年の11月に失う。妹トシの最期の姿を謳った詩「永訣の朝」はこの世に紬遺された黄金の言葉の数珠だと思う。


永訣の朝
けふのうちに  とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ  (あめゆじゅとてちてけんじゃ)
うすあかくいっそう陰惨な雲から みぞれはびちょびちょふってくる
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
青い蓴菜(じゅんさい)のもやうのついた これらふたつのかけた陶碗に
おまへがたべるあめゆきをとらうとして  わたくしはまがったてっぱうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした    (あめゆじゅとてちてけんじゃ)
蒼鉛いろの暗い雲から  みぞれはびちょびちょ沈んでくる
ああとし子  死ぬといふいまごろになって  わたくしをいっしゃうあかるくするために
こんなさっぱりした雪のひとわんを  おまへはわたくしにたのんだのだ
ありがたうわたくしのけなげないもうとよ わたくしもまっすぐにすすんでいくから
  (あめゆじゅとてちてけんじゃ)
はげしいはげしい熱やあへぎのあひだから  おまへはわたくしにたのんだのだ
銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの そらからおちた雪のさいごのひとわんを……
 妹トシの願いを受けて、お椀を持って外に飛び出した賢治の上に降り注ぐ粉雪、その時、天空を見上げた賢治に一つの想念が生まれる。「生と死の領域に入りながら、なお確かな意志を残して歩みつづけてゆけるかもしれない力があの天にある。 だからこそ賢治は、星空へ行く手だての考えなければならなかった。馬車、牛車、大鳥の身体、気球、竜巻・・・。今まで神話の中で語られている全ての手だてが、初め頭の中を横切ったはずである。けれども賢治は、そこに鉄道を敷設するという比類のない美しいイメージをつむいでみせてくれたのだ。」(畑山博「“銀河鉄道の夜”探検ブック」より)
トシを失った賢治は、その悲しみ癒えず、吹雪の中に妹の姿を見るなど幻覚にとらわれ、津軽海峡を越えて、北海道、さらにはサハリンにまでトシの姿を探す旅を続けた後、1924年、「銀河鉄道の夜」を書く。(参考「銀貨鉄道の夜 探検ブック」) カンパネルラが船から落ちたザネリを助けるために川に飛び込んだ同じ時刻、ジョバンニは村を見下ろす高台に寝ころび星空を見上げ、銀河鉄道の客となった。それは「永訣の朝」、はげしいはげしい熱のあえぎの中にあった妹トシとそれに寄り添った賢治とも静かにオーバーラップする。「生と死の領域に入りながらなお確かな意志を残して歩みつづけてゆけるかもしれない力があの天にある。」
賢治が「銀河鉄道の夜」を書き下ろした年に私の父は生まれ下り、80年後の11月、トシがなくなった月になくなった。父は最初に生まれた息子である私に賢治という名前をつけた。
▼大学病院を退院した次の日、父は母にせがんで表にでた。車いすにも自分で乗る意欲を示した。母と二人で近くのスーパーマーケットに行き、ポン菓子を自分で買った。これがこの夫婦にとって最期の素敵なデートとなった。帰って、車椅子からベッドに乗り移ろうと夫婦は悪戦苦闘した。その際、疲れ果てた母が父に愚痴をこぼし涙した。それを契機に父は沈黙した。母は父に申し訳ないことを言った、と電話してきて悔いた。父は母を怒ったのでもうんざりしたのでもない、と私は思う。このあまりにも切ない母の献身的な介護の姿を見て、父は決心したのだと思う。父はこの時、銀河鉄道の乗車券を手にしたのだと思う。その夜、父は高熱を出し再び入院し昏睡状態に入った。
▼黄金の落羽生の下に立ち、天を見上げると、この大樹がいまにも翼を広げて飛び立とうとするような錯覚にとらわれる。今年、この大樹の飛翔は私にとって格別のものがある。
 
                      2004年12月6日