おろおろする皇室の誠実さ  12月23日

ガーベラ/キク科オオセンボンヤリ属の宿根草。タンポポに似た葉の間から花茎を出し、径10センチから15センチの色鮮やかな花をつける。真紅色、濃黄色、淡桃色、白など花色は豊富で、一重、八重咲きのものがある。花言葉は神秘、崇高美。

▼「なんだか情けないですね。」「先行きが不安ですよね。」
街角の焼鳥屋の煙の中でサラリーマンたちがもっぱら話題にしていたのは天皇誕生日のこの日、発表された天皇陛下の会見の中味だった。
「・・・・・・このような状態の中で,今年5月皇太子の発言がありました。私としても初めて聞く内容で大変驚き,「動き」という重い言葉を伴った発言であったため,国民への説明を求めましたが,その説明により,皇太子妃が公務と育児の両立だけではない,様々な問題を抱えていたことが明らかにされました。私も皇后も,相談を受ければいつでも力になりたいと思いつつ,東宮職という独立した一つの職を持っている皇太子夫妻の独立性を重んじてきたことが,これらの様々な問題に,気が付くことのできない要因を作っていたのだとすれば大変残念なことでした。

 質問にある私の意思表示のもう1回は,皇太子の発言が,私ども2人に向けられたものとして取り上げられた時でした。事実に基づかない様々な言論に接するのは苦しいことでしたが,家族内のことがほとんどであり,私ども2人への批判に関しては,一切の弁明をすることは,皇室として避けるべきと判断し,その旨宮内庁に伝えました。

 皇太子の発言の内容については,その後,何回か皇太子からも話を聞いたのですが,まだ私に十分に理解しきれぬところがあり,こうした段階での細かい言及は控えたいと思います。

 2人の公務についても,5月の発言以来,様々に論じられてきました。秋篠宮の「公務は受け身のもの」という発言と皇太子の「時代に即した新しい公務」とは,必ずしも対極的なものとは思いません。新たな公務も,そこに個人の希望や関心がなくては本当の意義を持ち得ないし,また,同時に,与えられた公務を真摯(し)に果たしていく中から,新たに生まれてくる公務もあることを,私どもは結婚後の長い年月の間に,経験してきたからです。

 皇太子が希望する新しい公務がどのようなものであるか,まだわかりませんが,それを始めるに当たっては,皇太子妃の体調も十分に考慮した上で,その継続性や従来の公務との関係もよく勘案していくよう願っています。従来の公務を縮小する場合には,時期的な問題や要請した側への配慮を検討し,無責任でない形で行わなければなりません。「時代に即した公務」が具体的にどのようなものを指すかを示し,少なくともその方向性を指示して,周囲の協力を得ていくことが大切だと思います。2人が今持つ希望を率直に伝えてくれることによって,それが実現に向かい,2人の生活に安定と明るさがもたらされることを願っています。」(天皇陛下会見より)
この会見の見方に関して、焼鳥屋のサラリーマンと対極的な考えを私は持っている。帰国子女、外務省キャリアという経歴を持つ皇太子妃が投げた皇室への根深い疑問符は皇室や宮内庁に構造改革を迫る種火となっている。ただし、皇太子妃の思考の道筋は余りにも性急で臨機応変のしたたかさに欠ける。妻の頭脳や思考行動に全幅の信頼を寄せる皇太子はあまりにも妻のことを過信しすぎのようにも思える。毎日、早朝から繰り返される日常的な儀式の数々、人知れずおこなわれる伝統的所作のそれぞれをも単純に切り捨て次へ行こうとする思考には一見筋道は通るが、労というものがない。旧習を飲み込みながらそれらを次のステージに昇華させていこうとする地道な創造力が欠けているように思える。
▼一方、秋篠宮のように「公務は受け身のもの」と一言で片付け、兄夫婦の行動原理を切り捨ててしまうのもあまりにも味気ない。弟夫婦は幼い頃から疑いもなく皇室という世界に馴染んできた。その居心地のいい世界にいるものには皇太子妃のストレスを共有できない。しかし、宮内庁の官僚からみれば、この秋篠宮の大らかな態度は心地よい。彼らは弟を支持する。弟は兄への潜在的なライバル意識と共にに、兄夫婦をを否定する。
▼この息子達の、意固地な空気の中でオロオロとヤキモキしているのが父と母である天皇と皇后である。この家庭内の風景を、我々にも容易に想像できる言葉を使って天皇は会見で披露した。そのことを否定する氏は多いのだろうが、私はこれが平和憲法が作り出した一つの誠実な現実としてとらえたい。

▼何度か紹介した司馬遼太郎の記事(産経新聞より)・・・
「たとえば電車の中で、若い人が長い足を大きく広げて座っている。それを見て、『今の若者は』と嘆き、この国の先行きを憂える人がいる。でもねあれでいいのです。平和とはこういう若者の姿なんだ、これを得るために私たちは戦後苦労してきたのだ、と思うのですよ。
▼21世紀に向けて大切なのは、地球規模で文明の新しいスタンダードを、みんなで作り上げていくことです。
 地域紛争は永遠になくならないでしょうが、世界は一つの方向に動き始めている。国家間の障壁は低くなり、国家単位の私利私欲に代わって、国境を超えた人権と地球環境を守ること、この二つが新しい世界の公理となっていくはずです。
▼そんな二十一世紀の世界の取り持ち役として、日本は多くの資質をもっていると私は思います。経済進出や例外的な政治家の発言などで、今は誤解される面が多いが、私たちは本来、決して不作法な国民ではないし、第二次大戦後は外国に対して腕力を秘めて行動するなどということはおよそしてこなかった。日本が平和憲法の下で身につけた村役場の書記のような頼りなさ。それは、世界に対する謙虚さとして、きちんと評価されていいことです。
▼二十一世紀は、国家としてのうわべの勇ましさなどは評価されない、人間の時代なのですから。」(司馬遼太郎)


▼私が今の皇室に好感を抱くのは上の考えに即している。「日本が平和憲法の下で身につけた村役場の書記のような頼りなさ 」を、皇室は見事に具現しているように思う。意見の対立する二人の息子たちをオロオロしながら見つめる父と母は、二項対立を超えた第三の道があるのを知っている。この半世紀、二人が経験してきた事柄の一部始終を息子達がもっと学習すれば、解は浮かび上がると思うのだが、この家庭にも親と子の会話の回路はか細いようだ。

▼平成天皇、皇后は1959年(昭和34年)4月10日に結婚された。
 その日の朝の朝日新聞の天声人語
「皇太子さまと美智子さんは、きょうめでたく結婚される。ミッチーはこの日から東宮妃殿下になられるが、この愛称による親愛感は今後もお互いに失いたくないものである。天皇・皇后両陛下のお喜びはさこそと拝察されるが、国民もこのご結婚をこの上なく喜んでいる。今までも皇室の慶事は常に国を挙げて祝われたが、こんどのお二人ほど、国民から人間的親愛の情をこめて祝われた皇太子夫妻はあるまい。その意味でもお幸せである。この新郎・新婦は国民の人気を集めておられる。それは、皇太子のお人柄が好ましく、明るい賢い近代青年であり、妃もみめうるわしく才たけた近代女性だからである。それだけではない。宮中の古い伝統を破って、民間の家庭から嫁をえらばれ、雲の上から下りてこられたところに人気の源泉がある。
(略)◇この皇太子ブームを冷ややかにながめて旧天皇制復活の風潮を憂える向きも少なくない。その心配がないではない。が、これには国民の方にも一半の責任がある。ことに新聞、雑誌、ラジオ、テレビなどのマスコミがあまりあおりすぎると、そのような結果を招きかねない。国民の方があまり大騒ぎしてつきまといすぎると、逆に“雲の上”に追い上げることになる。お二人が町なかや公園を歩かれても、知らぬ顔をしてほおっておくくらいの“無関心のエチケット”をほしいものだ。一通りの結婚行事がすんだら、あとは気楽にさせてあげるのが、節度ある愛情というものであろう。
◇人生の門出に立たされる新家庭には、周囲の側近達が宮中の古いしきたりなどをあまり持ち込まぬよう、せっかくの皇室の新風を旧習で窮屈にしばらぬよう、釘を一本打っておく。また、でたいでたい今日の沿道でかつての二重橋事件のようなことを起こさぬよう、観衆の秩序ある自制を望んでおきたい。」 
 興味本位のマスコミの暴走を戒める、当時の日本社会の暖かい眼差しを感じ取れる記事である。

                      2004年12月23日