十二万の命 一つの命   12月31

美しい葉牡丹の花壇を見た。心洗われる清楚な配色だった。今年最後の写真に載せようと思った。。
▼「草木花便り」もなんとか二年間続けることができた。この私的な備忘録は私の日常になってきたし、書き込むのも苦にならなくなってきた。その分、雑になってきたのは要注意だが、それ以上に書き続けることで見えてくることも多い。
書き続けていくと、自分の浅さがよくわかる。しかし、これが現実なので逃げるわけにはいかない。人から笑われることを承知で公衆の面前に自分をさらけだす。そのことで自分の言動に対して責任を持つ覚悟を授かる。
▼50歳という年齢を前に、父と母が35年かけ築き上げバブルの渦中あらぬ欲得の餌食になって消えていった「誠文堂」を再建したいと、ふと思った。かといって、現実の世界では店を出すパワーもなく気力もない。そこで仮想現実の世界に「夢の誠文堂」を開店した。子供のゲームのような稚拙な発想である。しかし、こうして趣味の写真に下手な文章を添えることで日々の時間をせき止める作業を続けていると、直感ではあるが、発行元の「夢の誠文堂」がゆっくりとゆっくりとその姿の輪郭を見せる気配を感じる。今は見えては消える幻だが、これからも続けていけばその陽炎を掴んでみせることもできるという楽観がある。

▼2003年、このHPを立ち上げた年のはじめ、米国は強引にイラク戦争に突入していった。この激動の最中、元誠文堂店主の私の父は母が留守の時、一人でこっそりと町の病院の門をたたいた。これを契機に父は病との格闘の日々に入った。イラク戦争で理不尽な無差別殺戮が繰り返される中で、父は癌という病の不安と向き合いつづけた。今年の正月休み、故郷の駅の改札口にでてきた私を底なしの笑顔で迎えてくれた。寝間着姿のそのいでたちに驚かされたが、こんなに父を愛おしく思ったことはなかった。
▼今年、世界は異常な気象変動に
襲われ、その狂気と共鳴するように、父の体内に宿った癌細胞は暴れ、狼狽した私は父を引き戻すために無様に慌てふためいた。父の入った大学病院、今年、その地に二つの大型台風が上陸した。かつてない強風が故郷の家を襲う頃、父は精神の混乱に襲われ、さらに新潟県中越地方が震度7の激震に晒される中、最悪の状態に陥り、消え去った。そして、父の喪失という現実の中でうろたえる間もなく、地球はついにその地軸をずらす、この百年で最大の地殻変動を起こし、その大津波により12万人が地球上から消え去った。
▼かけがえのない父の喪失と、無数の他人の喪失の間を、気弱な個人としての私と、組織の中で異様に図太くなった中高年サラリーマンとしての私は、大きく振幅しつづけた。一人の肉親の死と同じ重みを持って、無数の他人の理不尽な死を感じ取る想像力がどれほど自分にあるのか。
▼この30年近く、報道現場を歩いてきた割には他人のことには鈍感な自分と、様々な経験を積んだはずなのに父一人を失ったことで少年のように気弱に狼狽する神経質な自分、この二面性を嫌というほど見せつけられる日々が続いている。その逃げられない自分の現実を、この自意識過剰の「草木花便り」は過酷に刻みつづけている。

▼父の四十九日の法要を終え、故郷で大晦日を迎えた。2004年大晦日の朝刊はまさにこの年を象徴している。一面トップに「奈良の女児殺害 男逮捕」の見出しが目を引く。残忍な少女殺人の犯人は予想通り、36歳の男だった。バブル期に青春を送り金満に酔いしれた日本人に私は異様な偏見を持っている。この時代、日本人は内向きになり自分のことには異常な関心を持つがすぐ隣のことになると全くの無関心になるか人を記号化してしまう、おそろしく冷たい見方をする。日本社会が、その場の空気に安易に共有しその空気が去ればいっせいに忘却していく、潜在的行動を露わに肯定し始めたのはこの時期だと思っている。この男の内面には物質的な繁栄の中で利他的な想像力の回路を失い個に埋没していった日本人の象徴がある。
▼逮捕された容疑者の俯き顔の写真の下に、「スマトラ沖地震・津波 死者12万人に」という記事がやや小さく載っている。この数日間に死者の数は幾何級数的に増え続けている。今後予想される伝染病などの蔓延を考えれば、その数はさらに10万単位で増えるかも知れない。この12万人の命の喪失をどう受け止めればいいのだろうか。突然、ポッカリと空いた大きな洞をどういう想像力で埋めればいいのだろうか。今現在、スマトラ島の荒野を泣き叫び歩く一人の子供の悲しみにまでどうやってたどり着けばいいのだろうか。
▼父というかけがえのない命の喪失、擦り切れた日本の悪意の前に犠牲となった少女の命、とてつもなく計り知れないなにものかによって剥ぎ取られた12万人の命、この間をどうやって行き来すればいいのだろうか、どんな回路をつくりあげればいいのだろうか。大晦日の一面記事は、過剰な情報社会に没入して何も身動きできない21世紀の人類を象徴しているように見える。


▼50歳になる年に始めたこのささやかな試みを、次の自分を築き上げる再生の第一歩として育てたい。このインターネット空間の中で、私は個人として、これまでとは違う感覚で世の中と向き合う勉強をしている。この感覚は私にしかわからないが、とにもかくにも57歳の誕生日、定年を迎える日、私は本格的に「夢の誠文堂」を稼働しはじめるだろう。たった一人、いや亡き父とともに創業する、まったく新しい店の店主として私は再生していける、その確信がわずかではあるが生まれつつある。

▼父の気配がした。「東京に帰ろう。」と思った。帰って、長い準備にかかろうと思った。父が「行ってこい。」と云ってくれたように思えた。
                      2004年12月31日