ジーコの霊感 2月9日
マンサク(万作)/
マンサク科マンサク属。本州、四国、九州の低山地でごく普通に見られる高さ3メートル前後の落葉小高木。 マンサクの名前は花が寒い時期に咲くので「先ず咲く」の意味からつけられたとも、この木の花つきのよい年は五穀豊穣と信じられて「満作」に通じるとしてつけたともいわれる。 花は1月〜3月頃、葉よりも先に咲く。花には1〜2cmでややちぢれた黄色の短冊形の花弁が4〜5本ありそれを支えるように赤紫色のガク片がつく。花言葉は、霊感・魔力・感じやすさ
・呪文。
▼ゲームが終わった。劇的なロスタイムでの勝ち越し点、日本代表が北朝鮮を2対1で下した。W杯ドイツ大会アジア最終予選、その初戦で日本代表は12年ぶりに北朝鮮と対戦した。瀬戸際のゴールを決めたのは大黒将志(24歳)。試合直前にジーコに呼ばれてベンチ入りを告げられた。そのチーム最若手が劇的なヒーローとなった。テレビの中のスタジアムの興奮は収まる気配を見せない。あすの朝刊はこの若者の名前がデカ文字で踊るだろう。
▼この歓声の中で私はジーコの采配に興奮している。しかし、おそらく、ゲームの興奮が冷めてくると各紙はジーコの采配についてこう論じはじめるだろう。「ジーコの首がつながった。」「強運だけで采配のないジーコへの不安」「ジーコの無策がまねいた辛勝」「ジーコがしっかりしていればこんなに苦戦することはなかった」・・・・。ジーコの眼力や天性の霊力を素直に讃える記事はどれだけでてくるだろうか。「近代サッカーは戦略だ、システムだ、」という呪縛の中にある評論家は、試合開始直後の先制後、何も動かなかったジーコの無策を批判するだろう。サッカーフアンの妻も「先制後、明らかに押されていたのだから、その流れを読んで、早めに選手交代をしていればこんなに苦戦することはなかったのに。」と手厳しい。しかし、この劇的なロスタイムでの勝利こそ、ジーコの天性であり霊力なのである、と小さい声で妻に反論する。さっそく、霊感、魔力を花言葉に持つマンサクの花を引っ張り出した。
▼ジーコの心は今なお、ピッチに立つプレーヤーである。そのプレーヤーに最も大切なのは「気合い」である。どこからともなくわき出てくるオーラ、その「気合い」を体内に招き入れた者に勝利の女神が宿る。伊集院静氏の言葉を借りれば゜「スポーツの神様が微笑んでくれる。」 ピッチの上に立つ現役選手と同じように「勝ちたい」という思いを燃やして、ジーコは代表選手達の起用にその天性を集中させていった。まず、「どうせ海外組が主役なんだから」という諦念の国内組に集中した。「このゲームは国内組で行く。」という早々の発言は、対戦相手を甘く見たからではない。彼ら国内組に気合いを注ぎ込みたかったのだ。一方、海外組からの招集は中村と高原に絞った。さきのW杯本大会にでることができなかった二人には強い思いが誰よりも持続している。そこから「気合い」を引き出すことに気を配った。「二人を先発に入れない。」と明言することで彼らのプライドに火をつけることも忘れなかった。
▼合宿中、ジーコは目を凝らして、勝利の女神が宿る選手を捜し続けた。そしてジーコの気合いと共振した若者を最後に起用した。そのために教え子の本山を外した。サッカーは指揮官の司令のもとに統率されるシステムである、というトルシエ流の対局にジーコ流はある。サッカーはピッチに立つそれぞれの個性のアイデアと気合いが互いに共振しながら自己組織化し予想を超えたドラマを築き上げる、まさに人生のような90分、その舞台に“神様”を呼び込む霊力を備えたものが名監督の栄誉を手に入れる。
▼日本が先取点を取った後、目を引いたのは、北朝鮮の闘いぶりだった。ユン・ジョンス監督は前半に次々と選手を替えた。「選手のコンディションはピッチに立った姿を見ないとわからない。いくら練習で良くてもピッチでの姿に精彩がないと感じるとすぐに替える」というのがジョンス監督の信条だと解説者が説明した。なるほど、と思う。彼も“勝利の神様を招き入れる”霊力を持つ監督かもしれない。ピッチでは在日のプレーヤー、アン・ヨンハツとリ・ハンジュが溌剌と走り回っている。そのひたむきさが他の選手の緊張を解いていく。動きがどんどん良くなる。
▼この北朝鮮の攻勢に押されて、ジーコが選手をバタバタと替えていたら、どうなっていただろうか。色々、見方はあるだろうが、私は日本代表のそれぞれの“気合い”が在日ストライカーを核にする北朝鮮の“気合い”の前に持続力を失っていたのではないか、と思う。
▼押され気味の試合展開に、ベンチでいらいらしていた海外組の二人はそれぞれが「自分がピッチに立ったらゲームの流れをこう変える。」という構想力をため込んでいた。この“ため”の時間が良かった。北朝鮮の気合いが爆発しての同点弾、ジーコは躊躇することなく二人をピッチに送った。「あたりまえだろう。ここで動くことはだれでもできる。」と嘲笑する人もいるだろうが、私はそのぎりぎりの瞬間まで“ためる”感覚がジーコに宿る独特の霊力なのだと信じる。
▼歓喜の北朝鮮イレブンは、目の前に現れた二人の気合いに対応する余力を引き出せなかった。中村と高原が見せたのは、サッカーがアイデアと構想力にあふれた曲線だということを見せつける“しなやかさ”だった。突然二人に遭遇し、最高潮に達していた北朝鮮の直線の情熱は呆然として怖じ気づいてしまった。
▼そこに、ゲートインしていた若者・大黒が土煙をあげてピッチに走った。しなやかな構想力の尖端にただがむしゃらにゴールを狙うことしか考えない男が突っ込む。そこに柔らかくアイデアに富んだパスが走った・・・・。
▼その劇的なドラマはあらかじめジーコが仕組んでいたわけではない。ただ、ジーコは知っている。ピッチで起こる出来事は人生の喜怒哀楽そのものだ。そして、もっとも劇的で波乱に富んでいるのはその幕切れの瞬間であることを。
▼試合後の会見でのジーコの言葉が印象的だ。「試合を見に来た人に楽しんでもらい、興奮してもらえたと思う。それがうれしい。」
10歳の時、プロサッカーチーム、フラミンゴのホームグラウンド「マラカラン・スタジアム」のグランドに立ったジーコは沸き上がる感動の中で自分はいつかプロの選手になってこのピッチの上に立ちフアンを喜ばせたいと誓った。サッカーが夢とロマンと波乱に溢れる人生そのもので、それをサポーターとともに分かち合えることが最大の喜びであることをジーコは身をもって伝えつづけている。ジーコの霊力が日本のサッカーをさらに次のステージに押し上げつつあると一人納得している。
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