辛夷と木蓮     2005年4月7

                    

▼殺風景な早春の公園を、最初に賑わすのは白い花群れ。まず、やってくるのは木蓮。木蓮の花は淡い黄色をうっすらとあしらった白、それが茶色く色あせると、もう一つの清楚な白い花、辛夷がやってくる。それがいつもの公園の順番だった。しかし今年はいつもより遅く、しかも二つの花が同時に咲いた。時差もなく競うように咲く白い花の下で、呼びとめられた。「辛夷と木蓮、どう違うの?」
▼以前にも書いたが、もう一度、整理しておこう。辛夷は、日本全土や朝鮮半島南部に自生する落葉高木。三枚のガク片に包まれて六枚の花弁があり、開花すると径10センチ前後になる。コブシの名前は蕾の時の形が幼児の拳に似ているから、また果実の形が拳に似ているからという。花弁は細かくさけて、ゆらりゆらりと風にそよぎ、こころもとない。周りの風景に同化されやすい頼りなさも感じ、見方によってはいかにも日本的である。 花言葉は友情、自然の愛。
▼一方の木蓮。モクレンは中国原産の花である。大作りの花形で優雅な趣を漂わせてくれる。一輪一輪がはっきりして木蓮と言う名の通り、蓮の花を思わせる。まさに大陸の風情がある。花言葉はこちらも自然の愛。

・・木蓮の枝はいくら重なっても、枝と枝との間はほがらかにすいている。木蓮は樹下に立つ人の眼を乱す程の細い枝を徒らには張らぬ、花さへ明らかである。この遥かなる下から見上げても、一輪の花ははっきりと、一輪の花に見える。花の色は勿論純白ではない。徒らに白いのは寒すぎる。極度の白さをわざと避けて、あたたかみのある淡黄に、奥床しくも自らを卑下している。・・・『草枕』(夏目漱石)


▼近くで見ると、辛夷はいかにも日本の花らしく、木蓮はいかにも中国原産らしい。違いは明らかだが、少し離れると二つの見分けは難しい。

▼「見た目は中国人も韓国人も日本人も同じでしょ。それが厄介なんですよ。」 食事をとりながら中国人のYさんはそう分析した。教科書検定の時節になると一気によじれる日本、中国、韓国の関係。経済ではクールな関係が一気にホットになり出口なしの迷路にはまってしまう。今年は日本の国連常任理事国入りが絡んでさらに複雑な様相をみせている。「人種が全く違うアメリカ人などは、最初から異質なものだと思っている。しかし、同じ人種の我々には同じ故に実に屈折した感情がある。

それが相手の立場に立ってものを考えることを忘れさせるんです。」いつもは解答として、すぐに歴史問題があげられどうしようもない平行線を辿るのだが、今日のYさんの分析はクールで説得力があるように思える。

▼似ているがゆえに、それぞれの違いを明確に意識しなければいけない。相手を自分と同質化しようとする気の緩みが、相手のことを思う想像力を忘れさせてしまうことになる。

▼「辛夷と木蓮はどう違うの?」このご婦人の質問に、即物的に外見の違いをあわてて答えてしまったが、本質ではなかったと後悔している。「木蓮は中国産でたった一つの花として咲く姿がおおらかで気高い。一方、日本原産の辛夷は一つの花はひらひらと頼りなげですが、群れをなすとなんとも愛らしい花園になります。」こっちの答えのほうがほうが、幾分ましだったか・・・・それにしても、二つの違いについては、もっと深い解答が用意されていそうだ。それがわかったらまた報告することにする。


▼そんなことを思って、朝の散歩をしていると、今度は辛夷と桜が一緒に咲いているのを見た。 今年の春はなんともあわただしい。

                      2005年4月7日