コンクリートの道辺の花  2005年5月1

 ▼感傷的になる年でもないが、みちの辺のコンクリートの裂け目に咲く野の花に惹かれる。その偶然の造形がいい。
▼亀裂にホールインワンした種子からみごとに芽が伸びて、それがたまたま差し込む光線を追いながら地上に顔を出すまでにいくつのハードルを乗り越えてきたのだろうか。
コンクリートの隙間から身を捩るようにして顔を出し、みごと花を咲かせる道辺の植物を探しながらゆっくり歩く。様々な偶然の条件が折り重なるようにして、この小さな花々を世に送り出してきたにちがいない、そう思うと、一つ一つの小さな風景がとんでもない奇跡の結晶のように見えてくる。生命現象とはこうした時間と空間が作り出す、偶然の産物であるにちがいない。

▼JR福知山線の列車“転覆”事故から5日がたった。今日も一人亡くなり、犠牲者は107人となった。前の駅でオーバーランした若き運転士が遅れた時間を取り戻そうと猛スピードでカーブに突入して列車は横転した。しかし、これだけが悪夢の始まりではないだろう。その瞬間、たまたま、そこに大風が吹き、たまたまどこからか石がレールに舞い落ち、たまたまなにかが、想像を超えたなにかが起きて、一瞬のうちにそれらが重なり合った・・・・そしてたまたま、そこにあったマンションの駐車場が横転した列車をすっぽりと飲み込んでしまう空間となった・・・・・。


▼そうした“魔”の時間と空間が我々の日常の中、至る所に、ブラックホールのように潜んでいる。そのとんでもない恐怖に身を縮めながらも、一方で、生きていることそれ自体が奇跡にちがいない、という実感がぞくぞくとわき起こる。


▼“転覆”した快速電車は偶然、線路脇の信号機を倒した。その衝撃のために信号機付近の信号がたまたま黄色に代わった。その時、対面では特急列車が事故現場に向かって走っていた。信号機が黄色に変わったために、運転手は徐行をはじめ、遠くに砂煙が上がるのをみつけた。運転士は自主的に停車させ緊急信号を発信し、周辺の他の電車もすべて停車させた。もし、信号機が倒れていなかったら、特急はそのまま突っ込み、二重衝突が起きていた可能性がある。


▼奇跡的に地上に身をのばすことができた、みちのべの花は、次の瞬間からいつ踏みつぶされるかもしれない、という危険にさらされる。そして次々と押し寄せる、たまたまの現象の中で、生き延びるものは生き延び、死に絶えるものは、その存在を知られることもなく消えていく。

▼わずかな空き地の中に数本の菜の花が貧相に咲いていた。その中の一本がどうしたわけか金網の柵から顔を出している。曇天の中、わずかな光が差し込み、その黄色が一気に鮮やかに浮かび上がった。綺麗だと思った。通りがかったその瞬間、光を浴びることがなかったら、その貧相な一本の菜の花は通行人に注目されることもなく、こうして写真にその姿を永遠に残す幸運にも巡り会えなかっただろう。たまたま、雲間から陽が差し込んだから、私はこのお気に入りの写真を手にすることができた。

▼無秩序な駐輪場の片隅でタンポポの黄色が光に愛らしく映えている。シャッターを押そうと思ったが、あまりもの混雑の中で、いい歳のオヤジがカメラを取り出し身をかがめるのは勇気がいった。それでも、意を決してシャッターを押した。それから、公園に行き、帰りにそのタンポポに再び近づいてみると、車輪に巻き込まれて茎が折れていた。撮っておいてよかった。


人の死んだ後には必ず茫然自失ともいうべき状態が起こってくる。思いもかけぬ虚無の訪れを理解し観念することはそれほどにむずかしい。
                   (フローベル)

                      2005年5月1日