奇縁2005  3月20

 奇縁ということを本気で考え始めたのは、脈絡もなく路傍の草花を写真におさめるようになってからだろうか。きまぐれな植物との出会いと、その時
自分に去来する思いが、奇妙に結びついていくような感覚、「こじつければなんでも言えるよ。」と嘲笑する人も多いだろうが、自分は導かれるようにして、その変哲もない草花にカメラを向け、時に、その瞬間を見計らったようにか細い斜光が小さな植物を照らすのを目撃する。そんなはっとする接点を何度も経験するうちに、様々な生命現象は、それぞれの時空の接点から放たれるエネルギーにより飛躍する、と思うようになる。
▼私の感じる奇縁は天候の中に潜んでいる。おそらく多くの人も同じような経験をしているにちがいない。昨秋、父が亡くなった日、街はしとしと雨に濡れた。「亡くなった日、雨が降れば、その人の寿命だということ。」と亡き祖母はいつも言っていた。そういえば、2年前、義父の遺骨を寺におさめ法要を始めると、いきなり激しい風雨と稲妻が走った。「おじいちゃんが怒っている。」と息子が呟いたことを思い出す。
▼父の告別式の最中から私は異様な興奮状態に陥った。いまにも壊れそうな激情のやり場に困り果てている時、どういうわけかふと、伯父の家に行こうと思った。父には4才年上の兄がいた。伯父は10年前に亡くなっている。伯父は隣町で書店を営んでいた。戦後、その兄の元で働いた後、父は独立して書店を開いた。近くで同じ商売を営む兄弟には屈折した感情の縺れがあった。そこに伯父の死後、様々な欲得が絡み、父は決して伯父の墓前に行くこともなかった。その父が意識を失う数日前、念願の自宅で2日間過ごした際、母にこう言った。「明日、良雄が来るから歓待してやってくれ。」良雄とは、23才の若さでインパールで戦死した次兄である。そして、しばらくして父は長兄である伯父のことを話した。「いい兄だった。」
これまで様々な屈辱を受けてきた父から出たその言葉は意外だった、と母は後日、漏らした。
▼告別式が終わった時、なぜ、突然、伯父の墓前へ行かなければならないと思ったかはいまも分からない。亡くなる数日前の父の言葉は後に母から聞いた。私は10年ぶりに伯父の墓前に座り、父の逝去を伯父に報告した。
▼短い報告を終えて外に出た。雨は上がっていた。西の空に目を見張るような夕景が広がっていた。それを見たとき、溢れる涙を止めることはできなかった。針小棒大なことを言っている、としか見えないかも知れないが、私にしてみれば、この時の自分のエネルギーの発露は忘れがたい出来事である。

▼父は大正13年の3月20日に生まれた。2年前、イラク攻撃が始まったこの日、父は病の淵に立たされることになる。昨年の3月20日、一時、元気を取り戻した父を母は島根県の津和野に連れ出した。津和野まで蒸気機関車で行った。津和野ではこの街出身の絵本作家の安野光雅のサイン会が開かれていた。聞けば、安野光雅の生まれた日も3月20日だとのことだった。
▼それから一年後3月20日、帰郷した。駅を降り立つと風が静かに吹き寄せた。この風がある限り、私は故郷から離れられない。「しだいにお寂しゅうなります。」 道行く近所の人がいまだにこう挨拶してくれる。
▼母はまだしばらく納骨はしたくないと言う。毎日、父と対話しながら過ごしている。こんなに慕われる父を幸せ者だとつくづく思う。
▼寂しさの癒えぬ母を連れだし、津和野を歩いた。気ままにぶらぶら歩いてみると、突然、屋敷塀沿いの水路を泳ぐ鯉の群れがバタバタと変な動きを始めた。その動きが面白いなと思いシャッターを切った。それからしばらくして、母が言った。「地震。」 次の瞬間、家々から人々が飛び出してきた。ニュース速報を伝える携帯電話が鳴った。九州北部で大きな地震が発生したらしい。まもなく各地の震源がディスプレーに表示された。それを見て、私は改めて奇縁を思う。「震度5強、福岡市、直方市、震度6弱 前原(まえばる)市、佐賀県みやき町で震度6弱、震源地は福岡県西方沖・・・」 激震に晒された筑後平野は亡き父が生まれ育った場所である。そして震源の福岡県西方沖は戦時中、父の乗る駆逐艦の受け持ち海域であった。大学生の頃、父に連れられてその思い出の西方沖を旅したことがある。
▼こんなことを話すと、思わず茶化されて笑い飛ばされそうだが、昨年、夏からの度重なる台風の上陸と地震、その異常気象の様が、私には父の体内で繰り広げられた細胞社会の地獄絵と重なる。そのミクロの世界と地球が時空を越え重なり合うのだ。この幻影をもっといい方法で伝えたいが、今はその表現手段を持たない。

▼津和野から帰って、父と母が犬を連れて歩いた散歩道を辿った。ツクシをさがしたが、残念ながらいつもの年のような収穫はなかった。しかし、草むらには、「ホトケノザ(仏の座)」が咲き乱れていた。年の暮れ、49日の法要の際、帰郷した折り、冬枯れの野に数本のホトケノザがヒョロヒョロと伸びていた。その横に、弔い花のキンポウゲが黄金色に輝き、 ホトケノザを包んでいた。この時、私は父の気配をこの早咲きのホトケノザに感じ、これを父の花とした。



▼それから3ヶ月、春を迎えた故郷の野原にホトケノザは咲き誇り、その周りを色鮮やかな草花が彩り、楽しそうに見える。ひときわ、オオイヌノフグリのブリーが賑やかに周りを跳ねていた。

オオイヌノフグリは母が大好きな野花である。

                      2005年3月20日