春の夢      2005年4月30日

フジ(藤)/マメ科フジ属。万葉時代から親しまれている。藤棚などの庭木として鑑賞されるようになったのは江戸時代。花色は紫が一般的だが、白色や八重咲きなどの園芸品も作られている。日本にはフジ(ノダフジ)とヤマフジ(ノフジ)の二種が自生する。フジとヤマヤマフジはつるの巻き方が反対。フジは天に向って左肩上がり(反時計回り)であがっていく。ヤマフジは右肩上がり(時計回り)で巻きのぼっていく。花言葉は 恋に酔う、歓迎。

「瓶にさす 藤の花ぶさ みじかければ 畳の上に とどかざりけり」 正岡子規

 病床に臥す子規。畳と同じ高さに置いた子規の目が、畳に届くか届かないか、ほんのちょっと短い藤の花をじっと見ている。じっと見ている、その静寂の時間と眼差し・・、無駄のまったくなく写実に徹しているがそこからわき出るそこはかとない叙情、・藤を謳った数ある歌の中で、この微妙な句に愛着を感じる。

▼病床で動くこともままならなくなった子規は明治34年1月から、「墨汁一滴」と題して、まさにふりしぼるような新聞連載を始める。4月入って病状はさらに悪化し、寝返りにも人手をかりなければならなくなった。「をかしければ笑ふ。悲しければ泣く。併し痛の烈しい時には仕様がないから、うめくか、叫ぶか、泣くか、又は黙ってこらへて居るかする。其中で黙ってこらへているのが一番苦しい。盛んに叫び、盛んに泣くと少し痛が減ずる。」(4月19日) この記述を発表して9日後の4月28日に子規はこの「墨汁一滴」に藤十首を発表する。その第一首が上の句である。
  第二首 瓶にさす藤の花ぶさ一ふさはかさねし書の上に垂れたり
  第六首 瓶にさす藤の花ぶさ花垂れて病の床に春暮れんとす

  5月、子規は「誠に我枕もとに若干の毒薬を置け。而して余が之を飲むか飲まぬかを見よ。」という壮絶な文章を書くほどに病状は最悪になっていった。
               (参考:「人間正岡子規」発行・財団法人関奉仕財団)

▼29日、大阪での仕事を終えた。次の日はまっすぐ東京に戻るつもりだった。夜、遅くホテルに帰った私は、父の夢を見た。意外なことに、これが父の死後初めて見た父の夢である。さりげなく、座っている父を見ていた。父は健康な時の姿だった。
▼父の死後、夢はみないが昼間、何気ない時間の空白の中で、病気と闘った父のことを考えていることは今もよくある。その壮絶な痛みとやるせなさと孤独に抛り込まれた父を救い出すことができなかった。その後悔と絶望感は今も自分を責め立てる。とても「寿命だよ。」と諦めることはできないのだ。
▼夢の中の父は自宅の居間に普通に座っていた。痛みに身を歪め取り憑かれたようにしゃべり続けることも、救いを求めるように目を忙しく動かすこともなかった。その静かな姿にまずほっとし、しばらく見つめていた。つづいて、「おやじが夢に出た」とはっとした瞬間に父は消えた。
 朝早く目覚めた。まったく予定していなかったのだが、朝一番の新幹線に乗って、山口の実家に帰郷した。
▼故郷は花に溢れていた。道辺の野花に目を奪われるままに、その心落ち着く道筋をゆっくり歩いた。ふと一息ついたとき、雑木林の中に、さやかに光る藤色の花列を見た。藤の花だ。私は藤棚に垂れ下がる花群れは余り好きになれない。林の中、宿主の樹を締め付ける強い力で天によじ登った蔓から、地上に降ろす階段の様な可憐な花列が賑やかに風にそよぐ、そんな藤に会いたいものだと思っていた。それが現実となった。林の緑を背景にその藤は気持ちよさそうに揺れている。真下にいって、寝転がった。宿主の樹の高さは5メートルもあろうか、その天空からおろされた藤色の階段の下で思いっきり伸びをしてみる。ああ、気持ちいい。

▼母は、友人からもらったという大勢の花の手入れに忙しい。「今年は不思議なことに庭にはいままで咲かなかったいろんな花が咲いてくれる。」と、この子にしてこの親あり、なんでも結びつけて考える・・・それはともかく、春の到来とともに少し元気を取り戻してくれた姿を見てほっとする。たった一日の帰郷だが、帰ってきてよかった。
▼初めて見た父の夢。「おい、帰ってやれよ。」そういう父のシグナルだったのか・・・また年甲斐もないこじつけをしている。書く必要もないくだらないことだが、記録しておかないと忘れてしまうので、書き残しておく。
 ▼2005年の春、初めて見た父の夢が、緑風にそよぐ藤の花のもとに連れていってくれた。それは子規が詠んだ壮絶な生への渇望に満ちた藤の花をも包み込む、すべてから解き放たれ
あるがままに風にそよぐそこぬけに長閑な花群れだった。

                      2005年4月30日