伝言メモ 2005年6月4日
御礼:左の写真は、君と歩いた早朝の里山で撮った花です。君のおかげで久しぶりに穂高の空気を満喫する貴重な時間を過ごすことができました。ありがとう。
▼4月初め、留守電にFのなつかしい声が録音されていた。声を聞くのは3年ぶりだが、こちらがなつかしむ間もなく、Fは「至急電話ください。」と気ぜわしく言って声を切った。あわてて電話しそののっぴきならない近況を知った。
▼Fはフリーの若きテレビ・ディレクター。将来、世界を駆けめぐり環境問題をテーマにした番組を作りたいという大きな夢を持ち、ドキュメンタリー番組のリサーチャーとして活躍していた。そのFとインタビュー番組の制作で一緒する機会が半年近くあった。生真面目ではあるが、思いついたことは躊躇することなくすぐに実践に移す。その一途な行動力がチームに活力を与えてくれた。一流の国立大学を卒業し日本有数の大銀行に就職したがすぐに辞めた。その後、スキーのインストラクターなどをした後、テレビの世界に入った。出身が同じ山口ということもあるからか、東京で悪戦苦闘、孤軍奮闘するFの心模様に共感することが多かった。半年後、私は異動で部署を代わった。40歳代の後半から1年ごとに各部署を転々とするようになった。若い頃は5年がかりの行動カレンダーをつくることができたが、それが3年になり、2年になっていく。せっかくのプランを途中で打ち切ることもあり周りに迷惑をかけることも多くなった。私が異動してしばらくして、その番組の制作要員が見直され、Fが職場を離れたと聞いたが、その後、どこへ移ったのか情報がなかった。半ば、責任を感じながらFのことが気になっていた。
▼3年ぶりに私に電話をかけてくれた時、Fは長野県の安曇野の病院にいた。心の病で入院しているのだという。「もう一度、仕事に復帰したい。」という切実な声が響いた。
▼ゴールデンウイークの混雑が過ぎるのを待って、6月初めの週末、穂高の駅に下りた。駅の前には、燕〜大天井〜常念から槍ケ岳へと続く通称アルプス銀座が聳えて連なる。あいにくガスがかかり、それらをはっきりと見ることはできなかったが、それでも標高2200メートルの信濃富士(有明山)の稜線がうっすらと穂高の街を抱え込んでいた。
▼改札口の向こうで、身長180センチ以上ある巨体に添えられた頭がひょこっとお辞儀した。一緒に仕事をしていた頃は坊主頭で体育会系の厳つい風貌だったが、空気の良い“神々の里”の暮らしの中で体は引き締まり厳かな風情がある。つい先日、安曇野の総合病院を退院したFは、今、穂高の診療所に毎日通いながら、心の安静を取り戻すための時間を積み重ねている。
▼Fはまず彼が通う「虹の村診療所」に案内してくれた。瀟洒な建物の扉を開けると中から賑やかなお囃子が聞こえてきた。診療所の院長・小林正信医師は「ちょうどいいところに来られました。一緒にやりませんか。」と話もそこそこに広いフロアへと導いた。そこにはカッパ頭の男性が若者達を相手に扇子を持って踊っていた。おいかどいちろう氏、独特のスタイルの獅子舞や舞踏をひっさげて日本各地の施設を回っている。ロンドン〜イスタンブール約4000キロを大道活動しながら徒歩縦断した活動派だ。その彼の軽妙な指導でそこにいた人々は自ら扇子を持ち踊りの輪をつくった。私もFも自然にその中に吸い込まれ、獅子の面をつけ舞を踊った。運動不足の堅い体にとっては大変な重労働であったが、大汗かいて走り回る時間は楽しかった。
▼体を思いっきり動かした後、若者達は禅を組んで瞑想する。その後、車座になって一人一人が今日一日のこと、今感じていることを素直に皆の前で語る。常識とか制約や気遣いだらけの社会生活の中で摩耗した心を解放するために自分の気持ちを遠慮なく素直に表に出すことを小林医師は求める。若者達がそれぞれ真摯に胸の内を吐露する言葉に耳を傾ける。こうした誠実な感性を置き去りにして突き進む現代社会のスピード。30年以上前、学生運動の高まりの渦中での高橋和己の言葉を思い出す。「なにもせねば当然約束される安定や利益を犠牲にし、ほとんど自らを懲罰するように否定に否定を重ねていって、現代の青年たちはなにを獲ようとしているのか。それは革命社会といった具体的なものではないようにも思える時がある。彼方から射し込んでくるかすかな光、全く次元の異なった自由、獲得しうるという保証は、まだどこにもない、しかし希求せざるをえないもの・・・・・。」(「自己否定について」高橋和己1969年)
▼穂高。北アルプスから流れ出た土砂が堆積してできた複合扇状地は湧き出るアルプスの水を受けて田植えを終えたばかりだった。その畦道を所在なげに私たちは歩き、私は気ままに写真を撮った。それにFは黙って付きあってくれた。Fが私に求めたのは「もう一度、放送現場で働けくチャンスをくれないか。」ということだろう。それは承知で私はFの訴えを断った。小林医師の指摘するように今は、じっくり時間をかけて自分を見つめ直すべきだと考えたからだ。そのすれ違いの思いを抱えたまま、私たちは薄曇りの畦道を歩いた。その時間の中で、交わされたポツリポツリとした会話を通して、私はジグソウパズルのようにしてFのその後の航跡を埋めていく。
▼要員の整理によってテレビ局を離れてほどない2003年の初め、世界にはキナ臭い空気が蔓延しはじめた。その渦中、Fはギターを抱えてアメリカ大使館の前に立ち「イマジン」を自分の訳詞で歌い続けた。
「 ◇天国はない ただ空があるだけ 地獄なんてない ただ宇宙があるだけ 今・ここ・瞬間を
生きていくんだ ◇国境なんてない 殺し合うこともない 大量破壊兵器も 地球環境破壊も
・・・・・・・・◇ 夢かも知れない でも君ひとりだけじゃない みんながそう想えば簡単なことさ・・」 巨体を揺すって大声で歌う毎日が続いた。しかし3月イラク攻撃は始まり世界は明らかに新しい局面に飛び出した。歌うことではじまったFの抵抗は出口のないまま吹き溜まった。新しい仕事も入ってこなかった。そんな悶々とする日々の中で、Fはある自然農業実践者の講演を聴きいたく感動した。そして、すぐにその講演者が農場を営む穂高へと移り住む。彼が頼った臼井健二さんのことについては後日、ゆっくり述べたいが、しばらく臼井さんのもとで精力的に働いたFはやがて更に深い心の闇に落ち込んでしまう。何が原因なのか?凡百はいろいろ還元して原因を導き出そうとするが、彼は密かに想っているにちがいない。「世界の不条理が僕を陥れたのだ。」
企業の身勝手な人員整理が一因かもしれない、しかしさらにおおきな世界情勢が一人の若者の人生に大きな揺さぶりをかけたことには間違いない。
▼二日目の昼、蕎麦屋でお茶を一杯すすった後で、Fは満を持したように、懐からA4・2枚の紙を取り出した。「提案です。」 決意をこめるように綺麗に清書された手書きの文章にゆっくりと目を通した。
「テロ事件、日々報道される様々な犯罪・・・それらの根源にあるものを洞察すると、かつて被害を受けた人がその被害者意識、復讐心を克服することができず、逆に膨張、暴発させ、より残酷な加害者になってしまうという構図が浮かび上がる。憎悪、対立、紛争、戦争、殺戮、虐殺・・・・有史以来人類が繰り返してきた「闇」の歴史の根源にあるのがこの被害者意識の連鎖、悪循環である・・(略)・・・・・私は(1)自然、人間が創造、追求する“真・善・美”(2)人類の被害者意識とその葛藤、克服 を描く番組、作品を創りたい。・・・・・・(略)・・・・・・」
日々、具体的な映像、素材、フレームなどという限られた視点で提案を見ているものにとって、これは提案というより、Fがこれまでの人生を通して醸成していった哲学の宣言であった。そしてその眩しい純粋の前で私は自分自身の堕落を思うしかなかった。「どうでしょうか。」とFが聞いた。その澄んだ静かな眼差しを浴びながら、私は黙って手打ち蕎麦を啜った。言葉が見つからなかった。孤独の淵から絞り出された言葉に応えるだけの知恵も包容力も今の私にはない。
「そんなにあせる必要はないんじゃないのか。」そういうのが精一杯だった。
▼気ままな散策につきあったくれたFは、最後に私を穂高の里が一望できる高台に連れて行ってくれた。汽車が来る時刻まで数時間あった。しばらくここで寝転がっていることにしよう。眼下の万水川の川面が斜光に照らされて浮き上がっていくのをぼんやりと眺めて過ごした。
▼ガスの向こうに霞む北アルプスを見ていると、昨年の晩秋亡くなった親父のことを思い出す。亡くなる2ヶ月前、大学病院の食堂でおやじに「定年後は山に抱かれた水のうまい場所で畑を耕して暮らしたい。」、と軽い気持ちで話した。すると、おやじは即座に「そりゃあいい。おれもそうしたかったなあ。」と大声で反応した。貧しい農家に生まれ、幼い頃に両親を失い丁稚奉公の末の戦争、そこで最愛の兄を失い、必死で働いて大きくした書店をバブルの渦中に欲得の餌食になり奪い取られた親父の人生は、時代の悪意に翻弄されっぱなしだった。Fの提案にあった“被害者意識”の連鎖に陥っても不思議ではない。しかし、親父は策を弄して復讐することもせず、いや復讐する術を持たず、いつもおろおろして騙されてばかりいた。そんな親父にイライラしたこともあるが、いまとなってみれば親父のように“デクノボー”として自分も人生を全うしたいと思う。誰にも騙されることなく、誰にも気兼ねすることなく、気ままに畑を耕して暮らすことを夢見た親父の心情が今になってようやく現実味を帯びて痛いように伝わってくる。
▼数日前、使わなくなった古い携帯電話を何気なく触っていると、たった一つ音メモが入っているのに気がついた。わずか10秒くらいの時間に入っていたのは意外なことに親父の声だった。末期、病室で私の携帯電話を取り上げ妻に電話した時の声である。間違って音メモのボタンを押してしまったのか、偶然残された親父の九州弁がくっきりと聞こえてきた。
「むちゃくちゃなことばかりいうとるけんね。」
体に侵入した細菌に打ち勝つために私は親父に栄養を摂ることを強制した。隙を見ると屁理屈を言って親父の口に蜂蜜や栄養ドリンクを抛り込もうとした。そんな息子を親父は「このペテン師め」といやがってみせるもののやがて観念して息子の強要を受け入れた。そんな病室での息子の様子を「むちゃくちゃなことばかりいうとるけんね。」と親父は妻に訴えた。今、聞くと、なんともユーモラスな親父の九州弁だった。そして、親父はこう言った。「でも私は大好きでね。」「ありがとう。」大きな声だった。音メモはそこで終わった。ほんの一言の声だったが、その短い言葉の言い回しとイントネーションに親父という存在の全てが凝縮されているように思えた。騙されても騙されても心底人を憎めなかった。それがまわりをほっとさせた。「ありがとう。」これが親父がこの世に置いていった最後の言葉だということに息子は誇りを持たなければならない。使わなくなった携帯電話にしまわれていた親父の声、今の私にとって何よりの宝だ。
▼「この穂高の風景を見たら親父は喜ぶだろうな。」 そんな感慨を言葉にしてFに伝えたかどうか、そのきっかけは忘れてしまったが、Fも父親のことを話し始めた。Fの父も今年の1月、肺気腫ために亡くなった。山口県の大手セメント会社に勤める実直なサラリーマンだった。趣味は登山で休日は日本各地の山を登った。臼井健二さんの講演を聴き、すぐに彼の元に押しかけたのも、臼井さんが暮らす場所が穂高であったことが大きい、とFは今になって思う。「父は穂高が大好きでした。兄の名前は高穂(たかお)というんですが、穂高をひっくり返したものです。」 幼い頃から父を通して慣れ親しんだ穂高をFはみずからの人生の再起の場所に選んだ。
▼昨年9月末、Fは初めてのアルプス登山を一人で敢行した。上高地を起点に穂高連峰を縦走する初心者としては無謀な計画だった。上高地から横尾を抜け唐沢ヒュッテで一息ついて北穂高連峰を目指そうとした時、にわかに雲行きが怪しくなった。それでも行こうとした時、携帯電話に残された伝言メモに気がついた。入院中の父の声だった。肺気腫のために呼吸もままならない父は荒い息づかいで息子にこう告げた。「天候が悪いから今日や唐沢ヒュッテに留まるように」
父とは長い間、連絡をとっていない。銀行を辞めて父の期待を裏切った頃から、父との会話も途絶えていた。親不孝をしてしまった、父に合わす顔がないと、父を避けてきた。その父が声を振り絞るようにして故郷から息子に「今日はそれ以上、進むな」と忠告している。この単独行のことを父はなぜ知っているのだろうか。驚いてしまったが、ここは父の忠告に素直に従って、移動することをやめた。
▼翌朝は快晴。再び、父からの伝言メモが残されていた。「今日は快晴。3000メートルの空の散歩を愉しんでください。」 一生、忘れられない父の言葉だ。
無謀な単独行を父は兄から聞いた。息子が上高地を出発した時から父は病室に地図を広げ、山の天気予報を聴きながら千里の彼方の息子と共に北アルプスを歩いていたのだ。その父に山頂から絵はがきの一枚でも送ってやればよかった。今、Fは後悔している。
▼Fが静かに父のことを語り終える頃、眼下の穂高の里は黄金色に染まった。
君が訳したイマジンの歌詞
「 夢かも知れない 相手の立場に立って想像する心
相手の心に想いを馳せて 対話を重ね 共存すること 」
これからも君の住む穂高に何度も足を運ぼうと思う。
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