夫妻の旅路   2005年6月28日

シモツケ(下野)/バラ科シモツケ属。今の栃木県は下野の国と呼ばれるが、この花が最初に見つかった国だからという説がある。本国以南の日本全土、中国にも分布する落葉小低木。花は小さく五弁で淡紅色、細い糸のような雄しべが長く伸びる。平安時代から庭に植えられ、「枕草子」にも登場する。花言葉は「自由」。

▼雨上がりの朝、皇居の森に宝石のようにこぼれる紫陽花の園の中を、下野の淡い桃色の花群れが謙虚な気品を漂わせてそこここに咲いていることだろう。同じ朝、この杜の家人である夫妻は灼熱の南洋の島で重い旅路を踏みしめている。夫妻をのせてゆっくりと進む黒い車列の廻りには強烈な赤を紺碧の空に向かって発射する「火炎樹」が咲き乱れていることだろう。この満開の火炎樹をかつて日本の兵士達は「南洋桜」と呼んで、その純紅の空の下で花見を開いた。

▼両陛下のサイパン島慰霊の旅は両陛下の強い思いで実現したという。その決意のほどは旅立ちの前日の声明からもはっきりと読みとれる。その全文を掲載する。

「終戦60年に当たり,サイパン島を訪問いたします。
 サイパン島は第一次世界大戦後,国際連盟の下で,日本の委任統治領になり,沖縄県民を始めとする多くの人々が島に渡り,島民と共にさとうきび栽培や製糖業に携わるなど,豊かな暮らしを目指して発展してきました。しかし先の大戦によりこの平和な島の姿は大きく変わりました。昭和19年6月15日には米軍が上陸し,孤立していた日本軍との間に,二十日以上にわたり戦闘が続きました。61年前の今日も,島では壮絶な戦いが続けられていました。食料や水もなく,負傷に対する手当てもない所で戦った人々のことを思うとき,心が痛みます。亡くなった日本人は5万5千人に及び,その中には子供を含む1万2千人の一般の人々がありました。同時に,この戦いにおいて,米軍も3千5百人近くの戦死者を出したこと,また,いたいけな幼児を含む9百人を超える島民が戦闘の犠牲となったことも決して忘れてはならないと思います。
 私どもは10年前,終戦50年に当たり先の大戦で特に大きな災禍を受けた東京,広島,長崎,沖縄の慰霊の施設を巡拝し,戦没者をしのび,尽きることのない悲しみと共に過ごしてきた遺族に思いを致しました。また,その前年には小笠原を訪れ,硫黄島において厳しい戦闘の果てに玉砕した人々をしのびました。
 この度,海外の地において,改めて,先の大戦によって命を失ったすべての人々を追悼し,遺族の歩んできた苦難の道をしのび,世界の平和を祈りたいと思います。
 私ども皆が,今日の我が国が,このような多くの人々の犠牲の上に築かれていることを,これからも常に心して歩んでいきたいものと思います。
 終わりに,この訪問に当たり,尽力された内閣総理大臣始め我が国の関係者,また,この度の私どもの訪問を受け入れるべく力を尽くされた米国並びに北マリアナ諸島の関係者に深く感謝いたします。」(平成17年6月27日 サイパン島ご訪問ご出発にあたっての天皇陛下のおことば)


←時事通信提供:サイパン島 バンザイクリフ

▼次の日の今日、現地サイパンから、忘れられない写真が配信されてきた。米軍に追いつめられた民間人が、「天皇陛下、万歳」と言って次々に飛び降り自決したという断崖、バンザイクリフにむかって、黙礼する両陛下の背中に、終戦60年に際しての並々ならない覚悟があふれ出ている。
▼前日の陛下の言葉にもあるように、サイパン島の移民の大多数は沖縄人(ウチナーンチュ)だった。1944年6月から7月にかけてのサイパン戦の25日間で日本軍の死者は4万3000人(米軍側の死者は3200人)、民間人の死者は1万2000人。その多くは沖縄出身者だった。サイパンの悲劇は日本では「玉砕」として報道され、「生きて虜囚の辱めを受けず」の徹底となって国民に刻み込まれた。生き延びた人は1万人以上いたのだがその情報は黙殺された。「全員、玉砕」の知らせは、親戚の多くいた沖縄には大きな衝撃となって伝えられ、サイパンから沖縄へ「玉砕」が連鎖した。沖縄の玉砕の悲劇はこうして導き出された。
▼慰霊の旅を前に、両陛下はサイパン戦経験者を皇居に招き、その体験に耳を傾けている。こうした準備は異例のことである。おそらく初めてのことであろう。この「玉砕」の連鎖についても両陛下は明確に意識されて、サイパンの地に立った。

▼戦後、国家主権絶対化の否定から生まれた日本国憲法は、国家の枠を越えた国際主義の視座の上に成り立っている。天皇はこの憲法の元で、「日本国民統合の象徴」となった。両陛下はその役割について考え抜き、着実に実践していようと強い覚悟の中にいる。その意味で、二人は日本国憲法の最も忠実な実践者だと私は最近、強く思う。
 終戦後、米国は、11歳だった皇太子(現天皇)に敬虔で穏健なクエーカー教徒の米国人女性エリザベス・バイニング夫人を家庭教師に任命した。彼女を通して米国は徹底した民主化・平和主義教育を皇太子に施した。天皇陛下の根っこには、この“時代の決意”が刻まれている。
 一方、皇后陛下は初めて民間から皇室に入り、戦後民主主義の象徴となった。欧米の報道機関はその結婚を「粉屋の娘がシンデレラになった!」という見出しで大きく報じた。“昭和のヒロイン”と言われた皇后は、戦争中、疎開も経験し、親戚を東京大空襲で失う、という経験を原点に持つ。中学2年の時、東京大空襲で帰らぬ人となった叔父についてこう詩にのこした。
 「                                          順おじさま

 思い出せば もう三年になる
 日あたりのいい 鵠沼の家で
 順おじ様を 皆してかこみ

 かけっこ かけっこと せがんだ ものだった。

 順おじ様も 上着をかなぐりすて
 砂かげろうの立つ鵠沼の庭を
 ヨーイ・ドンで 皆して走る
 何度やり直しても おじ様の勝ち  だった。

 今でもお庭で かけっこをして遊 ぶと おめがねの下で 
 笑いながら
 私たちをかけぬけて 
 ふりかえられる
おじ様のお顔が                                  見えるように思う。
 
 館林の悲しい おそう式がすんで
 軽井沢また東京と 住む場所が変わっても
 私の手箱の中に 思い出をこめて
 おじ様のお形見が ひめられている。 」

 戦火にさらされ焼け果てた荒野で、ありしの平和の風景を清々しく蘇らせる感性は奥深い。それは今もその心の源になっているはずだ。

▼夫妻が、明確なメッセージを持って、戦火にさらされた地の慰霊の旅路を歩みはじめたのは戦後50年からであろう。前の年に硫黄島に行かれ、50年の節目には沖縄、広島、長崎、東京大空襲の慰霊堂に足を運ばれた。この旅路とともに、天皇が毎年誕生日に際してのべられる会見の言葉にも明確な意志が込められてきた。それは並々ならぬ平和への決意とそれを分け隔てのない国際主義のもとに実践するという覚悟である。サイパン島訪問の前日の言葉「先の大戦によって命を失ったすべての人々を追悼し,遺族の歩んできた苦難の道をしのび,世界の平和を祈りたいと思います。 」 はその象徴である。

▼サイパン島の慰霊は島の北部の「中部太平洋戦没者の碑」「スーサイドクリフ」「バンザイクリフ」で終わる予定だと報道陣には前もって告げられていた。ところが、その直後、日程表にない慰霊先が急遽加えられた。両陛下は「おきなわの塔」の前で車を降り、石段下から拝礼をし、さらに「韓国平和記念塔」の下でも車を止め、黙礼された、という。この突然の訪問は「他の碑にも礼を尽くしたい」という天皇陛下の強い希望だと各紙は報じた。
▼両陛下のこの慰霊をアジア各国はどう見るか。安易な期待はしないが、すべての人を等しく慰霊し平和を祈り続けることが、象徴としての自らに課せられた最大の務めだとする夫妻の静かなメッセージは国家という壁を越えていくと先見する。
▼バンザイクリフで黙礼する二人の背中にその決意と覚悟が凝縮されている。これは、戦争責任を背負う日本の未来への解答である。
 「ただ 自らの弱さといくじなさのために 生まれて何も知らぬ 吾子の頬に 母よ 絶望の涙を落とすな」   (皇后陛下の愛読する竹内てるよ著「頬」より)

                      2005年6月28日