ぜいたくな時間
               2005年8月28日   

▼午前10時の小石川植物園。正門をくぐってすぐのところに、純白の芙蓉の花が咲き誇っていた。二種類の芙蓉の樹、一本は一重、もう一本は八重。芙蓉とは美人を形容する言葉だが、その名前にふさわしい清楚な純白に惹かれてさっそくシャッターを切った。
 その時、後ろで男性の声がした。この植物園の常連らしく、同伴の女性に要領を得た説明をしている。何気なく聞いていた。「この芙蓉は、スイフヨウ。酔う芙蓉と書いて「酔芙蓉」その名前の通り、今は真っ白だけど昼前にはほろ酔い加減にほんのりとピンクがかってきて、夕方には赤くなって散っていく一日花だ。」 知らなかった。今は白い花弁が一日でピンク色に変わって散っていくのだと、いう説明に心動かされた。その一言で、きょうの予定はすべてキャンセル、この花の前で過ごすことにした。花の色が変わっていく様を見届けてやろうと思った。樹の前のベンチにバッグを置いて腰を落ち着かせた。

▼これぞと思った花の前に立ち、惹かれるままにじっと見つめて時を過ごす。惹かれるままに光の中で変化する色模様や葉脈や雄しべの出で立ちを見つめる。     

 午前11時30分、一重酔芙蓉↓
元来、目が悪いためか、三脚を使わないせいか(これが最大の要因にちがいないが)、私の写真にはピンぼけが多い。それでも、これぞと思うものが目の前にとびこんでくると自分なりに、気合いを入れて、心をこめてシャッターを押す。そして次の瞬間、「よし」とばかり、言いしれぬ充足感に浸ることができる。後でみると、その時の思いにはほど遠い写真ばかりが並ぶのだが、それでいい、と自分を慰めている。目の前に起こっている出来事、時間の流れ、葉脈の中を吸い上げられる水の流れをもみてやろうという野心満々の精神に一瞬でも、なれる時間がありがたい。
   
▼午前11時30分。確かに、下の方の花弁がほんのりと色づき始めた。すばらしい。変化していくことへの確かな予感、もう一度、へっぴり腰でシャッターを押す。
「Sさん、じゃないですか。」振り向くと職場の知人が奥さんと並んでいる。
「やあ。」 なんだか、不思議にばつが悪い。だから、よっぽど愛想がなかったのだろう。一言も返せずにいると、知人は「それじゃ。」と言って、園内に向かっていった。この無愛想なところが「変人」とか「何を考えているのかわからない男」と言われる所以だろう。今の自分は、この芙蓉の花弁の変化のことでいっぱいで、いきなり等身大の世界に引き戻されても、すぐに対応できないのだ・・・そんなことを言っても何も理解してもらえないだろう。よって、私は、「近づきがたい変人」として、人を遠ざけ、ますます一人、草木の中に溶解していくことになり、孤立していくことになる。

芙蓉の花言葉は、しとやかな恋人、繊細美、微妙な美しさ。
入口のベンチに座っていると、休日の昼間、この広大な植物園を目指して門をくぐる様々な人々の模様がかいま見える。私のように植物写真愛好家も多くいる。そのほとんどが、私のカメラよりずっと高価なものを携えている。とくに女性の持ち物はうらやましいものが多い。女性カメラマンはグループで来る。皆と楽しみながら、和気藹々、賑やかにやってくる。それに比べて、男性カメラマンは一人が多い。ゆっくりと園内を狩人のようにのっそりと歩く。

ライカを持った女性が仲間に説明している。「この一重の酔芙蓉はめずらしいのよ。八重のような重苦しさがなくて、清楚でしょう。」婦人の話では、一重酔芙蓉は大変めずらしく、ここに植えられている一重酔芙蓉は、武蔵野市に住む愛好家が自分の手で作り出したものだという。

▼昼時になると、曇の間からうっすらと光が射し込み、それが花弁を透かして通り過ぎていく。光に応じてうっすらと頬を紅色にそめた花びらがそれぞれに、過ぎゆく時間の中で、二度と同じ色を見せずに、ゆっくりと変化してゆく。

 ↑ 午後1時 


空の様子を見て、
花弁の裏側に回った。










天から射し込む、淡い光に、愛くるしく細かい色素をふるわせる眩惑。




ふと気付くと、朝、思いっきり広げていた純白の翼を、その淡い紅色に溶け込せながら、静かにたたみ込んでいこうとしている。



もっと、大きく、その透明な紅色を惜しむことなく披露してほしいのに、
それは、謙虚に身をかがめて、その翼を休めようとしている。

「そういえば」
うす紅色の芙蓉の下のベンチに腰掛けたカップル。女の子の優しい言葉が、耳に届いた。
「そういえば?」 男の子が尋ねた。
「そういえば」 そこから先は聞こえなかった。






そういえば、そろそろ父の墓をつくろう。
郷里の母は今も部屋に骨壺を置いて、毎日、父に話しかけている。
まもなく、一年がすぎる。もういいだろう。母の散歩道の途上にある寺の境内に小さな墓をつくろう。母は毎日、お参りを続けるだろう。足の弱い母にとってはいいリハビリになるだろう。その墓地の横にはお寺が営む幼稚園がある。父が愛でた孫娘が通った園だ。その賑やかな黄色い歓声のそばに父の墓を作ろう。
墓をつくりに郷里に帰ろう。





▼ 午後2時近くになると、その薄紅は妖艶な香りを醸しだす。しかし、予想されたように、翼は広げられることなく、幾重にも重ねられていく。光は、複雑に屈折しながら、中心に向かって淡い赤となって届けられる。


←午後2時の一重酔芙蓉





           午後3時30分→

▼なんと清らかな、花の一日だろう。
その紅色の花弁を誇らしげに広げることもなく、控え目な花の一生が終わろうとしている。
  紅色の花弁を一杯に広げた花をカメラにおさめる、これが朝、考えていた終曲だった。しかし、実際に訪れた花の風情は、そんな浅はかで皮相な想像を超えて、ずっと優雅で儚く奥深い。その見事な紅色をそっと潜ませ身に寄せながら、酔芙蓉の花は再び沈む陽と共に、再び蕾となってゆく。


▼朝、ベンチの前を通り過ぎ、園内に消えていった初老の男性が、私の横で萎む酔芙蓉を写真におさめた後でこう言った。

「ぜいたくな時間を過ごしましたね。」






郷里に立てる、小さな父の墓には、生前、父が陶器に書いた言葉を刻もう。
「“夢 ”  
自然 人の一生は水の泡のごとし 」

その夢は 儚くも優雅な夢であった。

                      2005年8月28日