会議が踊った!! という妄想
             2005年8月20日  

赤詰草(あかつめくさ)
   Trifolium pratense L.
マメ科シャクジソウ属 別名:レッドクローバー、ムラサキツメクサ(紫詰草)南欧州 原産の帰化植物。明治初年、牧草として栽培したものが野生化した多年草。小花がたくさん集って可愛らしい球状の花を形作っている。
花言葉は、勤勉・実直・豊かな愛・快活・陽気な心

おむね50才を越えた男達が沈痛な面持ちで会議室に集合して、とてもすぐには解決できそうもない難題を前に頭を抱えて一列に並んでいる。ほぼ同期の面々、皆、年相応に白髪と皺とたるんだ皮膚と老眼と・・・・あの頃、現場を熱く走り回った同士が長い歳月の果てにたどり着いた、この会議室には厄介な問題が山積している。重苦しい空気があてもなく先ほどから同じところをぐるぐると回っている。
▼その時、沈黙を裂き破るように、軽快な音楽が一斉に鳴り出した。組織の苦悩を一手に引き受けたように顔を歪める“ゲーテ部長”のポケットからはビートルズの「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」、間髪入れずイーグルスの「ホテル・カルフオルニア」を送り出したのは、猫背でいつもせわしく廊下を駆け抜け、すれ違いざまに決まって「元気?」と奇声を発する“欽ちゃん部長”、いつもむっつり、口一文字の“拗ね者”部長からは意外にも軽快な音色、ブルーコメッツの「ブルーシャトー」が飛び出した。 
▼緊急連絡を伝える一斉メールを受けて、同時に着メロが鳴り響く。その賑やかな即興コラボレーションが、今から四半世紀前、まだ僕たちがこのビルの住人となる前、長髪のむさくるしい風情であてもなく雑踏を歩いていたあの頃の時空へ僕らを誘う。「みんな、面倒くさいことはちょっと忘れて、1970年代のあの街に繰り出そうぜ・・・・・・・・・・・・・」そうして皆がいなくなった会議室、机の上ではそれぞれの携帯電話がロッキングチェアのようにゆらゆらゆれて、それぞれのメロディーを奏でている。 2005年 夏の妄想

▼さらに、妄想は、1970年代の郷愁を越えて、一気に1931年封切りのドイツ映画「会議は踊る」の1シーン、ウイーン会議列席の各国代表が会議場を抜け出して舞踏会に繰り出してしまったシーンとゆっくりと重ね合う。誰もいない会議場で、議長のメッテルニッヒ宰相
虚空に向かって「ナポレオンのエルバ島終身流刑は満場一致で可決されました。」と読み上げる。会議場では空の椅子が揺れている。エリック・シャルル監督がメガホンをとったオペレッタ映画 「会議は踊る」は、権謀述数にまみれ形骸化した「会議」の本質を見事に描く一方で、浮き浮きする楽しいミュージカルに仕立てられている。

▼19世紀の初め、ナポレオン戦争の処理の為に百数十カ国の代表がウイーンに集り会議を開いた。会議は何年にもわたって延々と続き、議事は各国の野心や利害対立のために一向に進まなかった。その様子を皮肉って「会議は踊る。されど進まず」という名言が生まれた。映画「会議は踊る」は、会議を意のままに操り自国に有利に導こうとするオーストリアの宰相メッテルニッヒが一方の主役だ。メッテルニッヒは毎夜、舞踏会を催し各国の代表を腑抜けにして取り込んでしまおうと策略を練る・・・。
トーキーができたばかりの時期に映像化がしにくい「会議」を題材に映画をつくろうとする発想がまずなによりすばらしい。しかも映画はオープニングから砲火の轟音、それに呼応する貴族の「くしゃみ」・・・と実ににぎやかで愉快な音が並ぶ。映画に音がついたことへの喜びに満ち溢れ、しかも予想外にフアンタジックなストーリーが展開する。そのシナリオの見事さに圧倒される。
映像の世界を志す者にとって見逃せないのが、この映画で随所に登場する、計算されつくした長いショットである。必見は、主演女優のリリアン・ハーブエーが馬車に乗って王宮に向かうシーンだ。リリアンは歌う。
 「夢の中?それとも現実?泣いたり 笑ったり どうしたらいいの 人々が こぞって笑いかける おとぎ話が現実になった 今日 すべてが明らかに この世に生まれて ただ一度 このすばらしさ まさに夢 奇跡のよう降りそそぐ まばゆい黄金の光・・・」
 歌うリリアンを乗せた馬車の移動ショットは延々3分間続く。背景に手を振る沿道の人々がタイミングよく飛び込んできてそれぞれがまるで一篇の絵画のようだ。リリアン演じる乙女のときめきが画面いっぱいに弾きとんで愛くるしい。しかもその3分の間に編集がまったくされない、つまり1カットで描きこまれているのだ。映像を志す人はまずこのショットを研究するのがいい。このシーンだけでなく、すべてに絵作りや音への制作者たちの浮き浮きした高揚が込められている。音と映像のモンタージュという点でも勉強になるシーンが多くある。                                           
▼映画の終点は、「ナポレオンがエルベ島を脱出して再びフランスに上陸・・・」という知らせが舞踏会の喧噪の中、メッテルニッヒ宰相のもとに届けられるシーンである。策略に溢れ形骸化した会議も享楽の舞踏会も、一つの厳然とした現実の前にあっという間に崩れ去る、という非情を映画は観客に容赦なく突きつける。最近の日本のヒット映画「踊る大捜査線」の中の印象的な台詞「事件は会議室で起こっているのではない。現場で起こっているんだ。」も、この映画の精神をモチーフにしているにちがいない。
▼映画「会議は踊る」が封切られた1931年は満州事変の年だ。またドイツではこの2年後にヒットラーが政権を取り、映画は上映禁止となった。それを暗示するように、映画のラストは、途端落ちのようにもの悲しく喪失感に溢れている。人生とは所詮そんなもんさ、と投げ出されたような居心地悪さも味あうことになる。

▼連日続く会議の最中、時にこんな訳も分からない妄想の虜になる。
 僕らが会議に時間を費やしている間に、なにか大変なものが進行しているような予感がする。隣の会場で行われている舞踏会にも気を奪われないで、同じ時刻、海の向こうの現場で、船を乗り出す準備に刻々と取り組むナポレオンの胸中に思いを馳せる想像力をもたなければ、取り返しのつかないことになりそうな予感がする。

                      2005年8月20日