紅葉と桜
2005年11月23日
▼散り染めの十月桜に黄昏の陽が射し込んだ。そのつかの間の大気の中で、小さな白花の背後に一面真紅の光がいっせいに乱反射し始めた。この奇跡のような、桜と紅葉のコラボレーションの下に居合わすことができた。
▼桜のための花森ではない。紅葉のための晩秋ではない。季節はずれに咲いた小さな桜のために、紅葉はその花弁の一枚一枚をもらさず掬い取るように薄いベールを広げる。桜は心地よさそうに、ほんのりと花弁を紅色に染めた。そして今度は、その謙虚な白光が、紅葉が奏でる赤の世界をよりいっそう際だたせてくれる。なんと、気高い光景だろう。
▼色素は光の残像に違いない。色素は、通り過ぎていった無数の光の乱反射を忘れないための記憶装置だ。過ぎゆく、一瞬一瞬の光の数に呼応して無数の色素が乱舞する。この世に生まれ出たものが遭遇した様々な光の世界を、次に来るものに伝えるための装置が、花や葉っぱに内蔵されているに違いない。
▼今夕、斜光と共に、紅色の乱舞に包まれた十月桜の白花は、その鮮やかな饗宴の記憶を忘れることはない。その紅い光の乱反射を、記憶装置に焼き付けて、桜の樹は、2005年11月の秋を終える。
▼そして次の春、樹は、秋の記憶を花弁の色素に散りばめて、淡い桃色の花となって咲き乱れてみせるだろう。過ぎ去った秋の追憶と共に満開の桜が、山里の枯れ野を再び光の世界へと連れ出すに違いない。
山里を巡る光の饗宴の一年間は、桜の追憶と共に始まるのだ。
▼
▼満開の桜の宴に続いて、
次に躍り出る新緑の紅葉は逝った満開のうす紅色の桜の追憶と共に、光に身を焦がしながら、紅い色素をためこんでいく。こうして、数々の光の追憶と共に季節は巡っているに違いない。
▼2005年晩秋、
まもなく陽が落ちていく時刻、遭遇したこの風景を、自らの記憶装置の中にしまい込み、私は偶然
ここに居あわせた、幸運を思う。
|