父の宿題 @
2005年11月16日
▼きょうは父の命日、あっという間に一年がたった。一周忌の父に報告したいことがある。24才でインパール作戦に参加して戦死した伯父のことである.
▼取材で手にした名刺の整理をしていたら、作家・高木俊朗氏の名刺がでてきた。取材の月日は昭和58年の秋、逗子市の自宅に氏を訪ねた。木戸のある簡素で古い日本家屋だったと記憶している。高木氏は戦時中、映画の報道班員として、昭和19年3月から半年にわたって敢行されたインパール作戦に従軍した。ご承知のように、インパール作戦はガダルカナル戦と並んでもっとも凄惨な戦いであったと言われている。十分な食料や物資も持たずに5万人の兵士を雨期のジャングルに抛り込むという無謀な作戦だった。数ヶ月の間に4万人の兵士が塗れ雑巾のようにボロボロになって泥濘の中に沈み還ってこなかった。高木氏は、この常軌を逸した作戦の全貌を、戦後、一貫して書きしるし続けた。「日本の戦争責任者を、絞首刑にする極東軍事裁判の判決の声が、ラジオから聞こえてきた。それでも、私の胸中にわだかまっているものは消えなかった。私は戦争責任者とはなんだろうか、と考えた。私が見聞きしてきたインパール作戦の無謀を強行した愚将らと、それを“補佐”したという幕僚らは、国民に対して責任をとらなくてもよいのだろうか。
私は、そうした心のなかの怒りを一つ一つ、つかみだすようにして、インパール作戦の記録を書いた。何もかも、とぼしい年の暮れであった。家人は、朝早くから、食糧を手に入れるために、こみあう列車に乗って、どこかへ行った。
私は、北向きの部屋で、毛布をかぶりながら、書き続けた。まだ、焼け跡の防空壕の中で暮らしている人が多かった。昭和二十三年から二十四年の冬であった。・・・」(高木俊郎氏「インパール」の序より)
高木氏に話を聞いた時、私は20歳代後半だった。この時、氏から授かった「戦争責任者とは何だろうか?」という問いは今ももどかしい痰のようになって私の体内に粘着している。
▼なぜ、私は「インパール」に粘着したのか?それは幼い頃から、折に触れ、インパール作戦で戦死した伯父のことを父が語っていたからであろう。・・・・・・
父は、九州の久留米、筑後平野のまんなか、およそ90世帯が暮らす集落に生まれた。村人の多くは、米作りをしながら家では小さな久留米絣の機織場を営んでいた。その半農半工の家の一つ、祖父・民蔵の家には3人の男の子と1人の女の子がいた。父はその三男として生まれた。
▼父が5歳の時、祖母がなくなった。
それからほどなく祖父・民蔵も胃を悪くして、病に倒れた。祖父が寝込んでからというもの、家はあっという間に貧しくなった。民蔵は口減らしとして子どもたちを奉公に出さざるをえなくなった。尋常高等小学校2年生の2学期、長兄は中津の本屋に奉公にだされることになった。
「学校をやめたくない。」と長兄はなきじゃくった。長兄が無理やり手を引かれて家をでていく光景を、三男の父は今も忘れない、と何度も語った。
▼次男の良雄は要領のいい子だった。担任の先生からこんなに好かれた子もないだろう。「わしの子にくれ。」と教師が本気で頼み込んだこともある。良雄は小学校の頃から、「わしは満州に行く。」と口癖のように言っていた。「小学生の分際で・・」村の大人たちは笑った。その良雄も雑貨屋に奉公にいくことになった。それが決まった矢先、祖父・民蔵は逝った。3人の兄弟と1人の妹が貧困の中、身よりもないなな取り残された。
▼奉公にでた良雄は「こんなに商才のある子はみたことがない。」と主人を驚かされた。そのまま辛抱強く勤めていればいいものを、なぜか良雄は突然、辞職し、その後も、呉服屋、鉄工所と職場を次々にかえていった。末っ子の幸雄も酒屋に奉公していた。甘えん坊の幸雄は毎日、その孤独に押しつぶされそうで泣いて暮らしていた。そんな時、何の前触れもなく、ひょっこりと兄の良雄が現われた。「お前、元気か?」「元気かって、兄ちゃんこそどうしていたんだ、今どこにいるの?」 兄はにっこり笑って弟に金を渡す。ある時は、食堂に連れ出し「ほしいものなんでも食べろ」と気前よく言う。そして再び消えてしまった。或る時、幸雄は風邪を引いた。その時撮ったレントゲン写真が真っ白だった。医者は結核と診断し、即、隔離だと言い渡した。しかし、症状は良くなっている。もう風邪はなおったように思う。どうしようか、と思っていると、兄が現われた。「熱も引いている。もう大丈夫なんだろ。」「うん、でも、隔離されるって」「治っているんだ。レントゲン写真なんて信用するな。よし、病院から逃げ出すぞ。」 兄は弟の手を引いて駆け出した。
▼戦争が始まると、3兄弟はそれぞれすぐに入隊した。奉公を続けるより兵隊になったほうが生活が楽になると思った。長男は苦学して軍医になった。三男の父は海軍に入って通信兵となった。そして、次男の良雄は陸軍に入り、広島から船出し、南方にわたったという連絡が入ったが、それっきり音信が途絶えた。
▼終戦後、父は、青島沖で機雷の処理をしたあと故郷に戻った。村に父と同級生の男の子は10人いた。そのうち6人が戦死していた。
▼帰郷してまもなく、茨城県から一通の手紙が届いた。差出人は次兄・良雄の属していた部隊の小隊長だった。良雄はインパール作戦に参加していた。インパール近くで良雄たちは英軍とぶつかり敗走した。手紙にはその時の模様が書き連ねてあった。
「・・・・・・日本では想像できない大雨が降り続いていました。私たちはゆくあてもなく山の中を泥だらけになって敗走しました。その時、良雄君はマラリアにおかされていました。皆の肩にかつがれてやっと歩ける状態でした。・・・・、やがて、良雄君がふりしぼるように言いました。 『もういいから、自分を自分をここに置いて、行ってくれ』と・・・・・。私たちは草の中に良雄君を寝かせて・・・・行きました。 もし万が一、生きていれば、後を追ってきたイギリス兵に捕虜にされるかもしれない・・・・そう願うばかりです。・・・・」
▼勝つ見込みのない戦闘、食べるものは当初から何も用意されず民家から略奪すればいいとする無責任極まりない暴挙。大量の牛に荷物を運搬させ、その牛を現地で食べてしまうという「ジンギスカン作戦」を牟田口司令官自らが立てて悦に入ったが、山地の行軍の過程で牛は次々と倒れ動かなくなり足手まといになるばかりで死に絶えた。この呆れるばかりの常軌を逸した作戦の中で、もっとも自分を愛し支えてくれた兄が生け贄にされた。なぜ、こんな理不尽な目に遭わなければならないのか・・・・・・九州の貧しい農家に育ち、懸命に働き、兄弟達は無名戦士として戦場を駆けた。父は、怒りをこめて戦場の惨禍を語り、兄・良雄の最期の姿に思いを馳せるくだりになると、いつものように涙にあふれ、いつものように話はそこで止まった。
▼高木氏に会って以降、「インパール」をテーマにしたドキュメンタリーを制作できないか、提案を重ねたが、うまく実現できなかった。痰が詰まったような状態で凡百が時間を空費するうちに、終戦50年企画「ドキュメント太平洋戦争」シリーズの一本として、「責任なき戦場〜ビルマ・インパール〜」という重厚な力作が放送された。ディレクターの林新 氏 が、番組を通して貫いたメッセージは、なぜ、こんな無謀な作戦が実行されたのか、そこには権力を持った一握りの指導部と政治的な思惑と野心が一人歩きして、冷静で客観的な少数意見を封じ込め、それがやがて組織全体の意志として決定されていくというからくりが横たわっているにちがいない、それを明らかにしたいという一点にあった。
▼インパール作戦を立案した最高責任者は第15軍司令官・牟田口廉也中将だった。牟田口の口癖は 「大東亜戦争は、いわば、わしの責任だ。廬溝橋で第一発を撃って戦争を起こしたのはわしだから、わしが、この戦争のかたをつけねばならんと思うておる。まあ、見ておれ。」(高木俊郎「インパール」より)だった。牟田口は東条英機の従順な部下として、廬溝橋以来、「大東亜共栄圏」実現の先兵となり立身出世街道を駆け上がった。その狂信ともいえる自信過剰の男の存在は、東条にとっては踊らせる役者として申し分ない存在だった。東条の意をあうんの呼吸でくみ取り、反対派を強引にたたき伏せ、反対する部下は更迭し回りをイエスマンで固めていきながら、膨張主義を加速させていった。その象徴がインパール作戦の立案だった。
▼当時、牟田口が司令官をつとめていた第15軍。配下に3つの師団(第15師団<祭>、第31師団<烈>、第33師団<弓>)を抱えていた。第15軍の上にはビルマ方面軍、さらにその上に南方軍、そして頂点の大本営に連なっていた。南下を狙う英米軍を、その拠点のインパールに先手を打って攻め落とす、という強引な作戦を牟田口が提案した時、多くの参謀が反対した。現地の地形、気候、そして兵站を全く無視した構想には全く現実味がなかった。それでも牟田口が引き下がらなかったのは、その背後に、彼を暗黙の内に走らせる、頂点の男・東条英機の意志があった。そのあうんの波長を浴びながら、牟田口は暴れ、許諾がないうちからインパール作戦実行を既成事実として積み上げていった。そんな乱暴な牟田口を東条は黙認した。(また、当時、ビルマ方面軍の司令官だった河辺正三中将はこう漏らしている。「牟田口にやらせてやってほしい。」 河辺は廬溝橋で牟田口の直属の上司だった。)
▼昭和19年に入って中部太平洋の戦況は悪化の一途を辿った。2月、連合軍はマーシャル群島、マリアナ諸島を一気に奪い取った。この敗勢の中で、東条は内閣改造をおこない、首相兼陸相、さらに参謀総長を兼ねすべての権限を握るという暴挙に出た。これはもうメチャメチャ、でたらめの極地である。首相、陸相、その上に参謀総長までを兼ねる東条英機が牟田口を支持したのだ。さすがの現地の将官達も何も言えなくなった。それでも反対の意を唱えるものは容赦なく更迭された。
「東条首相は何よりもまず、国民の衰えた戦意をたかめ、独裁への信望と人気を集めなければならなかった。このとき彼の眼に映じたのは、狂信ともいえるほどの自信を持つ牟田口軍司令官の存在であった。戦略上、重要となってきたインドを背景にして、踊らせる役者としては申し分ない。牟田口の無鉄砲作戦なら、インドに飛び込めるかもしれない。牟田口が成功すれば、人気と敗勢を一挙に挽回できることができる。
東条英機参謀総長は、このような政治的な必要にかられて、インパール作戦に期待をかけるようになったものと見られた。」(高木俊朗「インパール」より)
▼戦後の人生の全てをインパール作戦の詳細な真相を暴き書き記すことにあてた、高木俊郎氏が、徹底して描写したのは、最前線の一兵卒の姿とともに、無責任きわまりない軍司令部の失態である。
昭和19年3月、多くの反対を押し切って、牟田口はインパール作戦は強行された。牟田口は精神論ばかりを唱え、兵站・補給に対しての精緻な構想は全く軽んじた。「まあ、安心せい。わしは、戦さに負けたことがないんだ。わしは、その点、実に運がいいと思っている・・・・」「わしには神様がついておる。わしにまかせておけ。」これが口癖だった。牟田口は、天長節(4月29日 天皇誕生日)までにインパールを陥落させる、と豪語した。天皇の誕生日に最大のニュースを東条のもとに届ける。東条にとってはこれほど可愛い、部下の言葉はなかったにちがいない。
▼インパール作戦が始まって3週間が過ぎて、現場の兵士達を唖然とさせたとこがあった。牟田口司令官がいっこうに軍司令部の所在地メイショウから動こうとしないのだ。メイショウはビルマ中央部の高原地帯にあるビルマ第一の避暑地である。そこには日本料理屋があり、内地から芸者や仲居を連れてきた。軍司令部の将校専用の料理屋があり、軍司令官、各参謀、幹部将校はそれぞれ専属の芸者を持ち、彼らは毎夜、料亭で酒を飲み、芸者を自分の部屋に連れて行く。前線で兵士が連合軍の烈しい攻撃に晒されて、傷つき、飢えと病に倒れている,まさに同じ時刻に上層部の男達はこんな悦楽に浸っていたのである。さすがに第15軍の上級司令部のビルマ方面司令部は、牟田口に前線に出るように督促した。だが牟田口はすぐには動かず、漸く重い腰を上げてたものの、直接、前線に入らず、途中、シュウウエボという街に滞在した。そこには日本料理屋が新しくできており、メイショウから芸者や仲居もやってきた。こうして時間を貪った後、牟田口が前線に入ったのは作戦が開始されてから44日目であった。当初、牟田口は作戦を3週間で終えると宣言していたが、それを遙かに過ぎていた。
▼日本陸軍が行動を開始する前に、連合軍は制空権を抑え、大量の物資を空から補給し、さらに空爆によって鉄道の要衝を次々に破壊していった。全く新しい敵の戦略を牟田口は悉く無視した。「廬溝橋以来、空軍の援助もなくても陸軍だけでやってきた。」という夢から覚めることがなかった。しかし、その一方で、前線に向かう移動の中で、牟田口は飛行機に怯えた。
「移動する途中の牟田口軍司令官の行動には、奇妙なものがあった。牟田口軍司令官は連合軍の飛行機の襲撃を、ひどく恐れていた。移動の途中は、時々小休止した。その場所に、全く空から見えないように、大きな木の下を選ぶのは、一般の対空警戒と変わりはなかった。だが、そのような場合でも、牟田口軍司令官は、まっさきに衛兵司令の叢良成(そうよしなり)軍曹を呼んで命じた・『叢、ここへ壕を掘れ』 壕を掘るのは、叢軍曹に決まっていた。衛兵中隊長と衛兵は、軍司令官を遠まきにして警戒していた。牟田口軍司令官は、いつも、叢軍曹に同じ事を付け加えていった。『叢、わしの壕だけでよいぞ』 ビルマとインドの土はかたかった。叢軍曹は手を痛くして掘った。だが、小休止だから、時間は短かった。たいていは、いくらも掘れないうちに出発となった。そのたびに、叢軍曹は腹の中でつぶやいた。『なにも、小休止の時になんか、壕を掘らせることはないやないか』 牟田口軍司令官が叢軍曹だけに、この仕事を命じるのは、飛行機に対して臆病なことを、ほかの兵に知られたくないからだ。叢軍曹は、そんなふうに感じた。」(高木俊朗「全滅」より)
▼作戦中、牟田口配下の三つの師団の師団長は悉く、更迭された。特にインパール北のコヒマを攻略した31師団の佐藤幸徳師団長はその後後方支援や物資支援が全くないことに業を煮やし、自ら兵を撤退するという前代未聞の決断をし、更迭された。後に佐藤はこう書き残している。「大本営、総軍(南方軍)、第15軍というバカの4乗がインパールの悲劇を招来した。」
▼太平洋戦争の中でも、特に無謀で愚劣きわまる作戦といわれたインパール作戦は、19年7月に終わった。16万4000人を越える兵士が犠牲となった。牟田口軍司令官は、無数の日本兵が雨のジャングルを彷徨っている時、早々に前線から去った。そして、昭和19年8月30日に内地に帰り、20年1月には、将校育成の機関である予科士官学校の校長となった。廬溝橋時代の牟田口の上司で、「牟田口の好きなようにやらせてやれ」とインパール作戦を放任した、ビルマ方面軍の河辺正三軍司令官は、その後、陸軍大将に出世している。要するに、この狂気に溢れた作戦に対して、だれも責任を取る者がいなかった。兄をインパール作戦失った作家、中野孝次は「50年目の日章旗」でインパール作戦について言及しこう書き残している。「東条首相にしろ、牟田口中将にしろ、ビルマ方面軍の河辺中将にしろ、あるいは東京の参謀本部にいた将官にしろ、戦争全体についてはむろん、こういう一つ一つの作戦の責任を誰一人とる者がなかったというのは実に驚くべきことだが、あらゆる特権階級と同じく自分達は法規の外にある人間だという自惚れが、当然ながら彼らにこの倫理的堕落をもたらしたのであろう。そして昨今の“住専”問題などを見ると、この軍首脳たちの無責任と恥知らずな心性は、戦後はこの国の政治家や高級官僚にそのまま残り続けたのではないかという気がしないではない。
情報と機密は自分達だけが所有している。それをもとにいかなる作戦を行おうが自分達の勝手であって、素人の容喙すべきことではない。お前らはわれわれ戦争の専門家にすべてを任せておけばいいのであって、いかなる結果になってもお前らは『之ガ結果ニ関シ、質問ヲ提起シ、弁明ヲ求メ、又ハ之ヲ批判シ、論難スルノ権利ヲ有セズ』なのだという。これが彼らの無責任の心性を作りあげた論理であった。だから牟田口の如きは恬として恥じず士官学校校長になぞ栄転したのだ。」
▼「私は戦争責任者とはなんだろうか、と考えた。私が見聞きしてきたインパール作戦の無謀を強行した愚将らと、それを“補佐”したという幕僚らは、国民に対して責任をとらなくてもよいのだろうか。」と戦後まもなく高木俊朗が発した素朴な疑問符は、今も痛烈に日本社会に突き刺さっている。バブルの崩壊で露わになったのは、業績第一主義の名のもとに一般社員に法外なノルマを課し、不正融資、不正取引に手を染めひたすら増収増益神話にすがりついた経営者達の姿だった。官僚達も自分達の既得権を守りながらその権益を膨張させていった。その挙げ句のバブルの崩壊、多くの中小企業やサラリーマンたちが傷つき命を落としていった。しかし、その経営責任や行政責任は曖昧にされていった。だれもが潔く責任を取る覚悟がこの国からは消えていった。インパールを考える時、どうしても考えはここに及ぶ。戦後、天皇の戦争責任を追及しなかったのも、それを追及すれば自分の責任にも及んでくるという危惧が蔓延していたからであろう。戦後の牟田口がそうであったように、彼らの多くが事あるごとに、「自分には責任がない。」と言える材料を探し、チャンスがあれば、なんの気兼ねなしに再び、自由奔放になれる機会を窺いつづけた。 無責任、責任のなすりあい、醜い日本人の行動原理が、今なお沸々と熟成されている。
▼今から10年前に放送された「ドキュメント太平洋戦争 第4集 責任なき戦場 」は、番組の最後を、山本肇キャスターの次の言葉で締めくくっている。
「現代の日本の社会は、軍部ではなく政党や官僚、それに企業といった組織を中心に動いています。しかし、現代のこうした組織がかつての軍部に似たような体質と、空気を持っていないと果たして胸を張って言えるでしょうか。このビルマの荒野に捨て去られた三万を超す屍は、無益な戦いに自分達を追い込んでいった無責任な組織決定に対して、痛烈な告発をしているように私には思えてなりません。」
(あすに、つづく)
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