誰も寝てはならぬ
         2006年2月24日


誰も寝てはならない、
寝てはならない

あなたもそうだ、皇女さま

あなたの冷たい部屋で
ごらんなさい

愛と希望にふるえる星を

しかし私の秘密は私の胸にある
私の名前を
誰も知ることはできない

そうではない、あなたの唇に私がいう、光が輝いた時、

そして私のくちづけは、
沈黙の中に

あなたを私のものにする

 今月10日夜、トリノオリンピック開会式のしめくくりに観衆の前に現れたのは、世界三大オペラ歌手の一人
地元イタリアのパバロッテイだった。両腕を広げかみしめるようにパバロッテイが歌い上げたのが、プッチーニのオペラ「トゥーランドット」の中の名曲「誰も寝てはならぬ」。パバロッテイ得意のこの曲が響き渡ると大観衆にどよめきがおこり、スタジアムは大歓声に包まれた。
▼ 「誰も寝てはならぬ」
パバロッテイの呪文にかかったのは、地元イタリアの市民というより、時差8時間の場所にいる日本の人々だったようである。早朝から始まる競技のクライマックスに連日、眠たい目をこすってつきあいつづけた人も多かったはずである。
▼しかし、このオリンピック、どうも日本選手は運から見放されたのか、あと一歩でメダルに届かない。朝、職場に出勤してくる同僚のA君の「あかんなあ。」というさえない言葉も日常化した感があった。このもやもやした気分を吹き飛ばす、待ちに待った瞬間、「ああー寝なくてよかった。」という場面が今朝、実況された。日本待望の初のメダルがフィギアスケート・荒川静香選手の胸に輝いた。しかも分厚い金メダルである。
▼氷上で舞う荒川選手の優雅な姿に誰もが忘れかけていた日本人の誇りを取り戻した。彼女がフリー演技で使用した曲が「誰も寝てはならぬ」
だった。一ヶ月前、現地入りしてから、急遽、曲名を変更した。「2004年の世界選手権で使用した縁起のいい曲で一番好きな曲だから。」というのが理由だそうだが、この決断ができたのは、荒川選手の感性が、オリンピックという格別の雰囲気を敏感に受け入れたからだろう。開会式でパバロッテイが「誰も寝てはならぬ」を歌うとは全く知らなかったそうだが、スタジアムがこの曲に包まれた時、「何か運命的なものを感じた。」と荒川選手はコメントした。荒川選手が金メダルと決まった瞬間、実況の刈屋アナウンサーが「トリノの女神は荒川静香にキスをしました!」と絶叫したが、まさにその通りだと思った。
▼気持ちよさそうに曲に乗って、流れるように滑る荒川選手の姿に魅せられて、ミーハーなわたしはさっそく 携帯電話の着メロを「誰も寝てはならぬ」に変えた。そして、夜、オペラ 「トゥーランドット」のDVDかCDを手に入れようと町を歩いたが、どこの店も「トゥーランドット」は今日になって売り切れたという。からっぽになった棚を見て、同じようなことを考える人がいるもんだと妙に感心している。

オペラ 「トゥーランドット」はイタリアのプッチーニ(1858年〜1924年)最後の作品である。オペラは未完のまま残ったが、彼のスケッチなどを参考にして弟子が完成させた。
 オペラの舞台は架空の時代の中国・北京の紫禁城。そこに住む皇帝の一人娘、トゥーランドット姫は美貌の持ち主だがなんとも冷酷な趣味を持つ。自分を妃にできる男は、自分が出す3つの謎を解けた者と決めている。しかし、この謎解きには、挑戦をしたものの謎が解けなかった者は容赦なく首切りの刑に処するという残忍な罰が用意されている。
今まさに処刑が始まる場面からオペラは始まる。処刑されるのはペルシャの王子。トゥーランドット姫の美貌に恋いこがれ謎解きに挑戦したがあっさり敗退してしまった。処刑場はまさにローマ時代のコロッセウム、押し寄せた群衆が口々に「血だ!血だ!血だ!」と叫び、異様な興奮の中にある。
その群集の中で、生き別れになっていた父子が偶然の再会をする。戦乱の中、祖国を追われたダッタン王国のティムール王とカラフ王子だ。ティムール王にはカラフ王子を慕う奴隷の娘リュウが付き添っていた。リュウは、以前カラフ王子に微笑まれたことがあり、その時からずーっとカラフ王子を慕い続けている。戦争の最中、ティムール王を救い出し献身的に支え続けてきた。

▼リュウがカラフ王子との再会に胸ときめかす間もなく、王子がとんでもないことを言い出した。処刑場に現れたトゥーランドット姫の美貌に魅せられ自分も3つの謎解きに挑戦するというのだ。当然、周りも大反対する。リュウは泣きながらおもいとどまるように訴えるが王子の決意は固かった。「ああ、王子様聞いてください。」と歌う。
▼そして、いよいよ、謎解きが始まる。姫の前に無名の王子として現れたカラフ王子は、意外にも3つの謎をいとも簡単に解いてしまう。さて、これで王子は姫を射止めたか。ところが、姫はどうしても結婚は嫌だと言い出した。そこで王子は姫にこんな宿題を出す。「私の名前はなんというか、あなたが夜が明けるまでに言い当てれば、私は死んでしまいましよう。」 姫はいっせい捜索を命じる。
姫の周辺が夜を徹して捜索をしている最中にカラフ王子が歌うのが「誰も寝てはならぬ」だ。

 まさに、寝ることもできない、夜を徹しての必死の捜索の末、ティムール王とリュウが捕らわれてきた。リュウは拷問にかけられるが、決して王の名前は明かさない。「名前は知っているが、愛の力があるから何も言わない。」そしていきなりトゥーランドット姫の櫛を抜き取り、自殺しまう。

   
このリューの一途な愛を見たトゥーランドット姫は氷の心を開き、カラフ王子を受け入れるところで幕が下りる。ストーリーをたどると、短絡的だが、これが奥行きのあるオペラで綴られると圧巻である。大団円に群集が再び「誰も寝てはならぬ」の旋律を大合唱する。
 (参考:ネット「トゥーランドットよもやま話」東芝emi「プッチーニ:歌劇”トゥーランドット”全曲 DVD「トゥーランドット プロジェクト〜チャン・イーモウ〜演出の世界〜」)

▼氷上で静かな微笑を浮かべて優雅に舞う、その東洋の娘。イタリアの人々は、そこに、王子への一途な献身的な愛を貫き通したリュウの姿を重ねていたのではないだろうか。
トリノの神様はこの瞬間のために、プッチーニ人生最期の仕事の中からこの名曲を選び出し、そこにリュウを舞わせるという粋な演出を思いついた。そしてこの奥ゆかしい舞台に、清楚で無欲な東洋の女性を
抜擢し、彼女はその大役を静かに受け入れ美しく舞い世界中を魅了した。
  それを見届け、「トリノの女神は荒川静香にキスをした!」

2006年2月24日