イナバウアーの品格
         2006年3月1日





▼金メダリスト、荒川静香選手のことについて、まだいろいろ書きたいことがあった。それほど、彼女の舞は、今の日本社会へ確かなメッセージを持っているように思え、書こう書こうという気があったが、目の前の忙しさにかまけ、五日間が過ぎてしまった。怠慢である。
▼その間、巷では、荒川静香を巡る様々な評論が一気に出て、私が言おう思っていたことはほぼ出尽くした感がある。彼女が示したメッセージはあっという間に、日本各地に浸透した。
▼いまさら同じようなことを書くのもなんだか間も抜けたことのように思うのだが、「世界らん展」で撮った写真も記録しておきたいので、写真に添える形で書き残しておくことにする。

▼先日、記したように、荒川静香の演技は、おそらく本人が意識した以上に、また日本人が想像していた以上に、欧米の人々に新鮮な感動を与えた。「クール・ビューテイ」という称号を与えニューヨークタイムスが讃えたように、その静かで清楚な氷上の舞に、西欧は改めて東洋の美、日本の美に出会った、といえばオーバーか。
▼荒川旋風の象徴が、彼女の技 “イナバウアー” であることにはまちがいない。この数日間で巷では子供達も「イナバウアー」と歓声をあげて胸を反らせてみせるようになった。週末のテニスコートでは早くも、その足の位置までをも懇切丁寧に示し、「片ひざのひざを曲げ、もう片方の足は後ろに引いて伸ばした姿勢をとる。・・・・」とうんちくを傾ける者もでてきた。このにわか“指導者”のもと、中高年がテニスコートでポーズをとってみたんだ、という同僚の話には思わず吹き出してしまった。どうやら、今年の流行語大賞の最有力候補になりそうだ。

▼イナバウアーとは、西ドイツで1941年に生まれて50年代に活躍した女子フイギアスケートのIna Bauer選手の名前からきたそうだ。もともとは彼女の足の運びからきたそうだ。巷の解説者の言うように「片方のひざを曲げ、もう片方の足は後ろに引いて伸ばした姿勢をとること。」である。この足運びに加えて、状態を思い切って反らせたのは荒川選手のオリジナルだ。小学生の頃から少しづつ、反らせていって、ここまで辿り着いた、と荒川選手自身が帰国後のインタビューで答えた。
▼なぜ、イナバウアーがこんなに熱狂的に受け入れられたのか?それは、その美しさに加えて、その背後に秘められた荒川選手の強い意志を皆が知ったからであろう。荒川選手が金メダルをとった翌日に放送されたNHKスペシャル「荒川静香 金メダルへの道」によると、前回のオリンピックで採点疑惑が明るみに出て以来、採点方法が厳密になり、テクニカルポイントに重きが置かれるようになった。この方針変更によって、イナバウアーは直接の得点につながらない技になった。しかし、荒川選手は晴れの舞台でこの優雅な技をぜひ披露したいと決意していた。全てがテクニカルに数値化される中で、数値化されない技を組み入れる意志を貫いたのだ。
▼NHKスペシャル「荒川静香 金メダルへの道」は、本番の4分間の中で、この得点につながらないイナバウアーがいかに荒川の演技を金メダルに押し上げたがを教えてくれた。
新ルールでは一つの技を4秒以上持続しなければ加点されない。荒川は以前、その持続時間が短かかったために加点されなかったという苦い経験を持つ。そのため一つ一つの演技の間「ア・イ・ス・ク・リー・ム」と唱えながら持続時間を慎重に数え、得点を積み重ねていった。テクニカル・ポイントを1点でもあげるために全神経を集中する、緊迫した4分間の演技、その丁度、中間点、疲れが出てきた時に、彼女はイナバウアーをプログラミングしていた。
▼イナバウアーは加点されない。だから頭の中でカウントする必要もない“空”の時間である。思いっきり、美しさだけを披露することができるこの瞬間、彼女にははじめて大歓声が聞こえてきた。そして、この大歓声を浴びる喜びを、エネルギーにして、後半の演技に向かっていった。
▼テクニカル・カウントが優先する中で、あえてその採点方式とは無関係のイナバウアーを取り入れた時から、オリンピックの女神が彼女に微笑みを向け始めたのではないだろうか。この「空」の時間を選んだ彼女には、「日本国にぜひメダルを・・」などという気負いはなかった。ただ、「オリンピックで最高の演技をする。」という一点に神経を集中した。その無欲な精神状態が、「空」の技、イナバウアーへのこだわりを産み、結果的にはそのイナバウアーが観客を魅了し、大歓声が彼女を金メダルへの道に押し上げることとなった。

▼荒川静香選手の氷上の姿に、世界の人々は日本人の品格を見た。その新鮮な驚きを地元イタリアをはじめ世界のマスコミはいっせいに報じた。そのことに私たち日本人は誇りを持っていい。イナバウアーを取り入れ、それに自分なりの改造を加え、全く新しい技に仕立て上げる“巧み”。それを回りの状況はどうであれ、意志を強く持って表現しようとする“求道心”・・・・彼女から醸し出される品格は、なんの気負いもなく、人知れず、自分の日常を美しく生きる、日本の「庶民の品格」そのものである。

▼最近、爆発的なヒットになっている「国家の品格」(藤原正彦)には、論理的思考力優先の中で、軽視されてきた「情緒」の大切さが述べられている。テクニカル優先というフレームを与えられるとそのことだけに邁進する、というタイプの人間を戦後教育は量産してきた。一方で、テクニカル優先といえども、自分がフイギアをやるうえでの初心、「美しく優雅に踊りたい。」という情緒を大切に暖め続ける荒川選手のような日本人はどんどん減っている。
▼本来、日本人はこの「情緒力」に満ちあふれていた。例えば、武士道。江戸時代、武士道を極める侍は尊敬されたが、彼らは決して金持ちではなかった。逆に言うと、金はなくても尊敬をされる、もう一つの物差しがあった。過剰なものを受け入れながらも、一方で数値化できない「もののあわれ」に価値を見いだし、茶道や華道を究めていく日本人の行動原理に、藤原正彦氏は、日本人の品格をみていく。「国家の品格」で取り上げられている日本人は国家という大きな権威を背負わずとも、自分の身の丈で実に独創的な人生を紡いでいる。(余談だが、その意味ではこの本のタイトルは「国家の品格」より「庶民の品格」としたほうがいいのではと思う。まあ、このタイトルだと本は売れそうにはないが)

▼話はどんどんそれていくが、明治の初め、日本を訪れた外国人は、日本の風景の美しさとともに庶民の謙虚で清楚な暮らしぶりに驚嘆した。
 「何故に日本では樹木が、かくも美しいのだろう。西洋では、花の咲ける梅や桜が、驚くべき光景を呈しないのに。ここではあまり不思議な美しさなので、いかほど書物で以前に読んだことがあっても、実景は人を唖然たらしめる。この神国では、樹木は永く土地に馴らされ、人間に愛撫されたため、魂を生じて、恰も愛する夫のために女が容を作る如くに、人間のために一層美しくなって感謝を表そうと努めるのであろうか。たしかに樹木は美しい奴隷の如くに、その美で人間の心を懐け得たのである。」(小泉八雲「知られぬ日本の面影」より)
「その女性は、たいそうやさしくて、上品で静かな微笑みとともに玄関で私を迎え、私の靴をとってくれた。二つの縁側は良く磨かれている。玄関も、私の部屋に通じる階段も同じである。畳はあまりにきめ細かく白いので、靴下をはいていても、その上を歩くのが心配なくらいである。磨かれた階段を上がると、光沢のあるきれいな広い縁側にでる。ここから美しい眺めが見られる。(中略)私の部屋の正面はすべて障子になっている。日中には障子は開けておく。天井は軽い板張りで、黒ずんだ横木が渡してある。天井を支えている柱はうす黒く光沢のある木である。鏡板は空色の縮み紙に金粉をふりまいたものである。一方の隅には床の間と呼ばれる二つの奥まったところがあり、光沢ある木の床がついている。一つの床の間には掛け物(壁にかけた絵)がかけてある。咲いた桜の枝を白絹の上に描いた絵で、すばらしい美術品である。これだけで部屋中が生彩と美しさに満ちてくる・・・・」(1878年、イザベラ・バード「日本奥地紀行」より)

▼荒川静香の金メダルの興奮は、なぜだか、明治初期に日本を訪れた外国人の言葉に触れたい気分をかき立てる。おそらく、その演技の美しさの中に、清楚で控えめであるが、独創的な精神態度を秘めた日本人の誇りを感じとれるからであろう。その誇りとは、国家とか大儀とかいう、たいそうなものを引きずっているのではなく、それぞれがぞれぞれの日常の中で極めている、細やかな求道心からくるものである。この「庶民の誇り」を荒川静香のイナバウアーは見事に表現しているのだと思う。

2006年3月1日