桜 咲く
2006年3月21日
▼久しぶりのポカポカ陽気の朝。時間に厳格なNは予想通り、練馬駅の改札口で私を待っていた。池袋に出て、余裕を持って、湘南ライナーに乗り、茅ヶ崎を目指したが、あまりもの窓から差し込む陽光が余りにも心地よく、二人とも寝入ってしまい、迂闊にも乗り過ごしてしまった。
▼遅れて到着した茅ヶ崎駅には、君と苦楽を共にした仲間達が待っていた。この海辺の街の高台に君の墓ができた。彼岸、ご家族に無理を言って、墓参りに来た。一年を過ぎても、まだまだ、私たちは君を「過去」にはできないでいる。君のことを「整理」して「向こう側」に送り出せないでいる。
▼真新しい墓にお参りをした後、ご家族が用意してくださった瀟洒なレストランで僕たちは君の話に花を咲かせた。連日徹夜を重ねながら食事もせずに編集を続けた君の姿、世界各地を取材するディレクター達の取材報告を聞くために、後輩の起きている時間を考え時差調整するあまり、自分に徹夜を強いるはめになる、その一途な誠実さが愉快に披露される・・・・・・・皆が語る言葉と共に蘇る君の姿は、生前のように僕にどうしようもない劣等感を呼び起こす。「お前は一体、何をしてきたのか。」「こんな自堕落な生き様を晒しつづけていいのか?」 ニヒルに笑う君はいつも私に鋭く迫った。「まあ、そういうなよ。僕は僕で、自分に出来ることをやっていく。」 そう言うのがせいいっぱいだった。 君と共に、社会主義崩壊時の欧州を走り回った老練のカメラマンが、ふとつぶやいた。「あいつが描きたかった欧州とはなんだったのか。今度は、あいつとハプスブルグ家をテーマにドキュメンタリーをつくりたい。」
▼ 詩人、宋左近の言葉が浮かぶ。「人間は何のために、生きるのか。死ぬためである。死んで、生き残っている別の人間のなかに棲みつくためである。そして、全体の幸福を祈るためである。」 私たち、それぞれの中に棲みついた君は、相変わらす、自分に厳しくどこまでも自分を傷めつづけているが、その姿がどこか滑稽で愛らしく、いつまでも僕たちの目標であり続ける。
▼帰り、駅に向かう途中で、見事な枝垂れ桜を見た。茅ヶ崎では有名な名勝だとタクシードライバーは説明してくれた。久しぶりの陽光のきょう、東京地方では桜の開花が宣言された、とラジオが伝えた。
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