飄然と
         2006年9月24日
    

▼激寒の冬を過ぎ、曇天の春を越え、猛暑かと思えば肌寒いとさえ感じる日が来る奇妙な夏を経て、今年の秋はきた。高麗川沿いのこの森には、不安定続きの今年の天候をかき消すように、絶妙のタイミングで彼岸の日に曼珠沙華が咲きそろった。

▼埼玉県日高市の巾着田曼珠沙華公園、私はここを勝手に”彼岸パーク”と呼んでいる。毎年、彼岸の頃、多くの人々が曼珠沙華を見に高麗川を越えてこの森に入る。彼岸。河の向こうの世界。終局・理想・悟りの世界。涅槃。
 ぞろぞろと橋を渡って紅の花の咲き乱れる森に入る中高年の列は、象徴的で意味深だ。こんなこと言ったら、「縁起でもないこというな。」と皆さんに叱られそうだが三途の川を渡る風景とはこんなものかもしれない。そして、今年も私は、その行列の中に入って、紅蓮の森をめざしている。「おたく、どちらから?」「練馬です。」「練馬、私も住んでいたことありますよ。もうずいぶん昔ですがね。」本当の彼岸に向かう行列も、こうした“飄々とした”明るい雰囲気のような気がする。


▼先日、我が友、U君の四十九日の法要がおこなれた。はやいもので、あれからあっという間に日々が流れた。
 私の故郷では、道行く人々が「日々、お寂しゅうなります。」と言って丁寧にあいさつをしてくれる。その言葉の通り、亡くなった最愛の人をそう簡単には過去にはできない。
▼お寺での法要を終えた後、U君の妻は、皆を銀座のレストランに案内し、そこで故人をしのんでの会食を用意した。そのレストランは、U君と同じ奈良出身のシェフが営み店で、二人はよくここで食事した。近くのがんセンターに入院中の時にも、時折、抜け出してここでデートしたという。3年前、、大手術を終えたU君をがんセンターに見舞いに行った。大手術をした直後とは思えぬほどU君は元気に見えた。病床でもさわやかな人はいるもんだな、と改めて感心した。その時、奥さんが「きのう、ジーンズをはかせてみたの」と言った。スリムなU君にはジーンズが良く似合う。ジーンズをはいた夫を連れて昨日は病院の近くの銀座を歩いたと話してくれた。そうか、その時にも二人は、ここで食事をし、腕を組んで銀座の街を歩いたんだな。
▼「夫のこと、なんでもいいですから話して下さい。」奥さんの司会で、皆、一人づつ、思い思いにU君について語った。語りつくせないほどたくさんのエピソードが浮かびあがった。皆、笑顔で目の前のもてなしの料理を満喫した。
▼「あなたたちもお父さんのことを・・・」母の言葉に促されて、U君自慢の二人の息子が立ちあがった。米国留学を終えて帰国したばかりの長男のK君は、今、就職活動を前に準備に追われている。「いつも父は僕の前を歩いていた。僕が就職してようやく父と対等になれ、二人で悩みを語りあったりしたかった。」 静かに語った。父と一緒に酒を酌み交わしながらしみじみ語り合いたい、そんな願いを息子の方から言ってもらえるU君をうらやましく思う。
▼続いて、次男のM君、高校生である。ちゃんとあいさつできるかな、ふと過ぎった不安をM君はすぐに払拭した。
「父は大変、屈強な人でした。なにをしても父にはかなわなかった。火葬した時、父の骨は太くて大きくて、骨壺に入りきれないくらい屈強でした。」 若者の口から溢れ出た、「屈強」という言葉がいつまでも残った。












▼U君のお兄さんが声をかけてくれた。 そして、 
「よかったら読んでください。」と自らが作り発行した一冊の句集をくださった。謙虚で口数の少ない兄さんは、その句集についてコメントを加えることはなかったが、句集の表紙には「亡き父に捧げる哀悼句〜七七忌に寄す〜」と書かれていた。帰って、一句一句を読んで、しみじみとした。
▼兄さんは故郷の奈良で国語の教師をするかたわら、句を詠みつづけている。句集は、闘病のすえ逝った父の四十九日にちなんでつくった四十九の句から構成されている。排列は三部構成で、第一部は闘病末期の生前、第二部は臨終前後、第三部は亡後と、大きく分けられている。そこには長男として、父の最期をしっかりと見据えようという気迫がこめられており、父の死を単なる過去の断片として据え置くのではなく、そのかけがえのない生の記録を昇華しようという懸命な兄さんの心模様が染みこんでいる。同じ長男のせいだろうか、その長男としての義務感が痛みとなって伝わってくる。句集の発行は2000年の9月24日となっていた。転載させてもらう。

 <飄然と  上田善紀   〜亡き父、上田豊に捧げる哀悼句〜七十七忌に寄す〜>

第壱部

寒夕焼病にかてる死もありぬ
 
長びく病院生活に
小春日や病床一つまたも空く
 
自宅療養を許さるるに
是よりは己が恃みぞ冬萌ゆる
 
二ヶ月ぶりに好きな珈琲を飲む
珈琲のあつき冬野へ退院す
 
梅雨寒の為すすべもなく余命かな

黴びてゆく若き日の書と志操かな


人の生はつかのまの夢青嵐

夏雲に呼びかけてゐる病床

明易しかぼそきこゑの父のゆめ
 
冨士森恭平氏より書簡あり
夏野より枕頭に書いま届く

病窓に見ゆる生活も秋灯し

露寒の父にもありぬ細き脛

新涼や昏睡の父夢はなに

付き添へば秋夜この芳醇のとき

終焉を待つ人ここに花柘榴

父の眼も祭り囃子のなかにゐて

弾む息死に怯えたる緑の夜

病院へ蜩と行く未明四時




     第貳部

 秋蛍見知らぬひとのごとく逝く

 秋天に父飄然と逝きたまふ

 身に沁むや昏睡の息いま絶ゆる

 薄目して何を見つむる秋の昼

 秋暑し半眼半口息絶ゆる

 秋冷や頬くぼませて睡りをり




 なきがらや固くなりゆく秋真昼

 秋の夕棺に隠るる媼あり

 大西日棺に置きし指の数

 秋真昼棺を打ちし釘五本

 あたたかき畳離るる秋の棺

 揚花火振返り見る通夜の客

 なきがらへ寝返りを打つ夜の秋

 秋冷やなきがらに背を向けて寝る




 泣き面も日盛のなか骨燃ゆる

 秋暑し焼き場の骨の説明も

 骨壺のわが掌に温し秋座敷





 
   第参部

いわし雲ひとり減りたる家族あり

古ぼけたカバンと露を遺品とす

たび人の棺へ入れよ入れよ菊

秋の蝶羽を震はす石の上

秋の昼きらきら喪主は直立す

とほい国とはコスモスの揺るる丘

秋冷や墓標にしるき墨の色

ひぐらしや力を込めて鈴叩け





野分中御詠歌すすむ第九番
 
謝・御詠歌唱へる隣びと
信心の村と思へり露のうた

かなしみはまた別にあり九月来る

死後も鋭き眼の遺影そぞろ寒

溢れくる涙乾かせ風の秋

いざさらば再会はわが死する秋




▼四十九の句を書き写しながら、私も父の死にゆく様を反芻した。朽ち果てる父の様を冷徹なまでに描写する善紀氏の目線に、私は同じ長男として、どうしようもないもどかしさを覚える。そうすることでしか、父を葬ることのできない、父を乗り越えることができない長男の性を思う。善紀氏は父の死を書き残すことで懸命に父の喪失を昇華しようとしているのだ。そのもどかしさが切ない。
▼句集、「飄然と」という題名は、父の親友が「君の父は実に飄然としていたよ。」言ってくれたことからくる。善紀氏はあとがきにこう書き記している。「父の終始崩さぬ相好を冨士恭平先生は「飄然と」という言葉で表現した。いづれにしても父は七十一年間の生涯においてつつしみ深く地味で堅実に実直に、そうして飄然と生きてきた。」


▼ U君の四十九日の法要を終えて数日後、奥さんから挨拶状が届いた。
 「・・・・思えば 夫は最期のときまで生きることしか考えていませんでした。残された私たちもまた今は生きていくことしか考えられません。しかしその行く手に必ず夫がいると思うとこれからの人生愉快にすら思えます・・・・・」 爽快な決意表明だった。
いざさらば再会はわが死する秋

▼ 人生の最期には、決して勝つことのない壮絶な戦いが必ず用意されている。しかし、その戦いを終えて、彼岸に向かう人々には、あの容赦ない苦痛はなく、皆、元気だった頃のように、飄然と、賑やかに三途の川を渡っていくのではないか。高麗川沿いの彼岸パークを歩きながらそんなバカなことを空想している。
▼ 「あんた、そんな日陰より、こっちのほうが綺麗だよ。ほら、こっち。」
さっきからこのあたりの通というおじさんが、私のシャッターチャンスを遮る。「うるさいなあ。」と思いながら、赤の他人に気軽に声かけ挙げ句の果ては、カメラアングルまで指示する、その図々しさも、愉快だと思う。いつのまにか、いわれるままにシャッターを押していた。この彼岸パークは底抜けに明るい。

▼日が暮れて、パラパラと額に雨粒が落ちてきた。人々の動きがにわかにせわしくなる。
ひと雨ごとに秋は深まっていく。
2006年9月24日