私の中の“君が代”
2006年9月26日
サルビア・レウカンサ
シソ科サルビア属
メキシコ生まれの多年草。茎に、葉を対生させ、葉の脇
から枝を伸ばしてまた葉を対生させながら、よく茂る。葉には、厚みがあり柔らかい毛が密生していている。
9月の終わり頃から茎の先に花穂を出して、花を咲かせる。花は、下の方から上に向かって次々に咲き上がる。花には、紫色の筒形のがく(先が3裂している)、白いくちびる形の花びら(後に淡い紫になる)、おしべ2本、めしべ1本(花柱に毛が密生し、柱頭は2つに割れている)が見られる。がくにも花びらにも毛が密生している。 花言葉は、家族愛
▼郷里で、一度だけ、「君が代」についての授業を受けたことがある。中学1年のクラス担任で国語教師のS先生の授業だった。授業と言っても、放課後か休憩時間かにおこなわれたもので、正式のものではない。たまたま、週番かなにかで、教室にいた数人の生徒を前に、中学1年2組の担任だったS先生が何かの拍子に始めた即興の授業だった。
▼国語の教師だったS先生は、猫背で廊下をのっそりと歩き、私を見かけると「おい、誠文堂」と声をかけた。「誠文堂」と呼ばれるのは嫌だったが、S先生には悪意のないのがわかっているので、悪びれずに「はい」と素直に応えることができた。それをまねにて、悪童達が「誠文堂!」とはやし立てるのはたまらなく嫌だった。市内で書店を営んでいた父が、当時、よく注文された本を持って学校に出入りしていた。教員室の中ををぺこぺこ頭を下げ本を配ったり注文を取って歩く父の姿を見るのは気持ちいいものではなかったが、父はこの教員室に来るのを楽しみにしている節があった。「おー、誠文堂」と父の訪問を楽しみにしてくれたのが、S先生であり、理科担当の0先生だった。3人は話もそこそこに教員室の片隅で碁盤を囲み、囲碁に興じた。休みともなれば彼らは我が家にやってきて夜を徹して麻雀に興じた。父の後ろで、その様子を見ながらゲームを覚え、中学を卒業するころには麻雀をほぼマスターした。「お前のおやじさんは本当にいい男だ。親孝行してやれよ。」S先生はいつもそう言ってくれた。
▼S先生の黒板に書く字は、豪放磊落なその性格とはうって変わって、ミミズが這うようにか細かった。その独特の字体で先生は「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔の蒸すまで」と書き、この歌詞の意味、そして歌が生まれる経緯を話し始めた。詳しいことは忘れたが、この“授業”が以後、私の中の“君が代”となっている。
▼明治になって、いろんなことで、日本も国としての体裁を整えなければならなかった。そういえば、国歌がないじゃないか、つくったほうがいいのでは、といいことなった。その時、偉い人の頭に浮かんだのが
「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔の蒸すまで」
これは御詠歌の歌詞、亡くなった恋人に永遠の命を望む歌だ。君とは、君たちが最も大切に思う人達のことだ。千代に八千代にとはいつまでも、永遠に、という意味。さざれ石とは細かい石、それがやがて長い歳月の中で岩になる、秋芳洞に行ったことがあるだろ、長い歳月の中で鍾乳石が成長していくように岩も成長していく、そしてやがてそこに苔が生えるまでになりやがて山ができる。だから、皆、この歌を歌うときは、ちょうど、初詣に行って手をあわせて拝む時「おとうさん、おかあさん、おばあちゃん・・・・みながいつまでも健康で幸せでありますように・・・・」と祈るように、自分達の大切な人達がいつまでも幸せでありますように、と願って歌えばいい・・・・・
▼最近、気になって、資料をを集めた。(以下、「君が代」の起源 ー藤田友治ーを参考にした)
@ 歌は「古今和歌集」の読み人知らずの古歌に始まり、「和漢朗詠集」にとられ、その後、 筑紫流箏曲や隆達の小唄、琵琶歌「蓬莱山」、浄瑠璃、常磐津、さらには門付け唄などにも 歌われていた。明治二年イギリス公使館・護衛歩兵隊の軍楽長ジョン・ウイリアム・フエントンが,鹿児島藩軍楽隊員顛川吉次郎を介して,儀礼用の国歌があるかと問うたのに対し、同藩の砲兵隊長・大山巌は、野津鎮雄、大迫貞清にはかり、彼らが愛唱していた薩摩琵琶歌の「蓬莱山」から「君が代」を選び作曲を依頼した。
( 「国史大辞典」ー吉川弘文館ーより )
A 「君が代」はもともとは「わが君」であった。これは天皇を指すものではなかった。古今和歌集にある「読み人知らず」の歌は「我が君は 千代にましませ さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」である。「我が君」の「我」とは相手を表す名詞について、対等または目下に用いる対象の代名詞を表す。「君」とは一般に、
「一、天皇。二、自分の仕える人。主人。三、敬意を表す。四、あなた 等」を意味する。しかし、天皇を明確に指す場合は、当時、「我が大君」と使われた。この場合は、単純に「あなた」を指すものと考えられる。
B 「さざれ石の巌となりて・・・」について折口信夫はこう記している。「石の中に神霊の宿るとい
ふ信仰は、沢山あります。其宿っているのを見抜くのは、巫祝の力なのです。・・・実際には成長しないにかかわらず、成長すると信じて居るのです。柳田先生も、信仰の生みだした文学として説かれましたが、君が代の歌も此から出ています。」(「折口信夫全集」第15巻、222ページ)
C さらに「古今和歌集」の歌は、万葉集の次の挽歌にまでさかのぼることができる。
「妹が名は 千代に流れむ 姫島の 子松が末に 苔むすまでに」(万葉集 巻二・二二八)
この歌の意味は、「愛しいあなたは、今ここに死んでいるが、何も悲しむにあたらない。あなたの名はいつまでも続いていくだろう。この姫島の小松の梢が高く伸びて、その先に苔が生えてくるほどの長い間を」。前後の脈略から愛しい人は、海に身を投げて逝った乙女だと判る。
こうして見ていくと、「君が代」は逝ってしまった愛しい人の魂が永遠に生き続けることを祈る
鎮魂の歌だという解釈にいたる。
▼“君が代”を語ったS先生の兄は、特攻隊員として出撃し逝った、と後日、父から聞いた。
あの時、先生はなぜ“君が代”について語り始めたのか、わからない。当時、明治百年ということで、縁の古い品々が中学校に集められていた。その展示作業をする流れの中で始まった授業だったような気もしてきたが、先生の個人的な戦争体験の中にこの授業に至る道筋があったのではないかという推測もできる。
▼国家主義の象徴として歌われた“君が代”、その君とは天皇であり、歌は天皇家の永遠の繁栄を祈る意味が込められた。“君が代”は昭和の15年にわたる戦争の象徴である。戦後、GHQによる日本の社会システムの解体の過程で、天皇は生き残った。それとともに“君が代”も残った。ただし、新制の日本憲法は主権在民とし、天皇は日本国民統合の象徴とされた。S先生の授業を今改めて反芻すれば、戦後の主権の再定義の中で、先生は、「君」を天皇の代名詞から、国民一人一人に引き寄せることをしようとしたのではないか。
君たちが最も愛する父や母や妻や恋人、そんな人々の幸福を祈り利他的に生きよ!
S先生は“君が代”をそう再定義したかったのではないか。四季の変化に富んだ日本で、古来より人々は自然の循環の小さなひとひらとして自らの存在をとらえてきた。大きな地球生命体としての循環は永続しておりそれが続く限り万物は形を変幻させながらも生き続けるのである。戦後の“君が代”はこの世界観の中で再定義されるべきである。天皇にとっての“君が代”は国民一人一人であり皇后であり息子達であり孫達であり、そして戦場に散っていった無数の人々である。その永久の幸福を祈る姿が、国民統合の象徴となるのである。いさましく平和を訴え自由と正義を唱える国歌はいらない。我々は、この“君が代”にあらたな意味を見いだして(本来の意味を再確認して)、再定義すべきではないのか・・・・・・S先生はこんな稚拙な弁は展開しなかったが、あの「授業」をきっかけに、いま私は“君が代”についてそんな見解に辿り着いている。
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