芥川竜之介「侏儒の言葉」を読む A
         2006年1月3日 
  
      
「侏儒の言葉」は必ずしもわたしの思想を伝えるものではない。ただわたしの思想の変化を時々窺わせるのに過ぎぬものである。一本の草よりも一すじの蔓草、ーー、しかもその蔓草は幾すじも蔓を伸ばしているかもしれない。
    芥川竜之介

                            武器

 ◇正義は武器に似たものである。武器は金を出しさえすれば、敵にも味方にも買われるであろう。正義にも理屈をつけさえすれば、敵にも味方にも買われるものである。
 
古来「正義の敵」という名は砲弾のように投げ交わされた。しかし修辞につりこまれなければ、どちらがほんとうの「正義の敵」だか、めったに判然したためしはない。

◇日本人の労働者は単に日本人と生まれたがゆえに、パナマから退去を命じられた。これは正義に反している。アメリカは新聞の伝えるとおり、「正義の敵」と言わなければならぬ。しかしシナ人の労働者も単にシナ人と生まれたがゆえに、千住から退去を命じられた。これも正義に反している。日本は新聞紙の伝えるとおり、ーーーいや日本は二千年来、常に「正義の味方」である。正義はまだ日本の利害と一度も矛盾しなかったらしい。

◇武器それ自身は恐れるに足りない。恐れるのは武人の技量である。正義それ自身も恐れるに足りない。恐れるのは扇動家の雄弁である。・・・・(略)・・・・。









◇わたしは歴史を翻すたびに、遊就館を想うことを禁じ得ない。過去の廊下には薄暗い中にさまざまの正義が陳列してある。青龍刀に似ているのは儒教の教える正義であろう。騎士の槍に似ているのはキリスト教の教える正義であろう。ここに太い棍棒がある。これは社会主義の正義であろう。かしこに房についた長剣がある。あれは国家主義者の正義であろう。わたしはそういう武器を見ながら、幾多の戦いを想像し、おのずから心悸の高まることがある、しかしまだ幸か不幸か、わたし自身その武器一つを執りたいと思った記憶はない。
 

2006年1月3日