芥川竜之介「侏儒の言葉」を読む B
         2006年1月4日 
  
      
「侏儒の言葉」は必ずしもわたしの思想を伝えるものではない。ただわたしの思想の変化を時々窺わせるのに過ぎぬものである。一本の草よりも一すじの蔓草、ーー、しかもその蔓草は幾すじも蔓を伸ばしているかもしれない。
    芥川竜之介

                                        人生

 ◇もし遊泳を学ばないものに泳げと命じるものがあれば、なんびとも無理だと思うであろう。もしまたランニングを学ばないものに駆けろと命ずるものがあれば、やはり理不尽だと思わざるを得まい。しかしわれわれは生まれた時から、こういうばかげた命令を負わされているのも同じことである。
◇われわれは母の胎内にいた時に、人生に処する道を学んだであろうか?しかも胎内を離れるが早いか、とにかく大きい競技場に似た人生の中に踏み入るのである。もちろん遊泳を学ばないものは満足に泳げる理屈はない。同様にランニングを学ばないものはたいてい人後に落ちそうである。するとわれわれも創痍を負わずに人生の競技場を出られるはずはない。
◇なるほど世人は言うかもしれない。「前人の跡を見るがよい。あそこに君たちの手本がある」
と。しかし百の遊泳者や千のランナアをながめたにしろ、たちまち遊泳を覚えたり、ランニングに通じたりするものではない。のみならずその遊泳者はことごとく水を飲んでおり、そのまたランナアは一人残らず競技場の土にまみれている。見たまえ、世界の名選手さえたいていは得意の微笑のかげに渋面を隠しているではないか?
人生は狂人の主催に成ったオリンピック大会に似たものである。われわれは人生とたたかいながら、人生とたたかうことを学ばねばならぬ。こういうゲエムのばかばかしさに憤慨を禁じえないものはさっさと埒外に歩み去るがよい。自殺もまた確かに一便法である。しかし人生の競技場に踏みとどまりたいと思うものは創痍を恐れずにたたかわなければならぬ。


◇ 又  
 人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのはばかばかしい。重大に扱わなければ危険である。


 人生は落丁の多い書物に似ている。一部を成すとは称し難い。しかしとにかく一部を成している。

 

2006年1月4日