素朴派のアトリエ
2006年10月15日
花梨(かりん)
Chaenomeles sinensis
バラ科カリン属
かりんの名は、この材の木目が三味線の胴や棹に使われるマメ科のかりん(花櫚。花梨とも書かれる。八重山紫檀(ヤエヤマシタン)をはじめとする紫檀の仲間。)に似ているところから名付けられた。現在ではバラ科のかりんも床柱や三味線の胴などに用いられるので、混乱している。
「からぼけ」ともいわれ、俳諧では、花は春の、実は秋の季語。写真では丸く蜜柑のようにみえるが、実は洋梨に似ている。果肉が厚く、酸味渋みがあり生では食べられない。樹は落葉高木で耐寒性があるので信州や東北地方で主に栽培されている。原産は中国で古い時代に薬用として日本に入ってきたといわれている。
花言葉は、可能性がある・豊麗・優雅・唯一の恋・誘惑
▼世田谷美術館で始まったアンリ・ルソー展を見に行く。会場は中高年を中心に大勢の人でごったがえしていた。ルソーは相変わらず日本人に人気がある。その気負いのない素朴な画風は、「そんなに肩に力を入れなくてもいいんだよ。」と軟らかに微笑まれているようで、気を楽にさせてくれる.。
▼50歳を過ぎてますますアンリ・ルソーに引かれるのは、その後半生の彼の生き様に勇気付けられるからでもある。アンリ・ルソー(1844ー1910)は49歳まで、パリ市内の税関に勤める下級官吏だった。本格的に画家に専念するのは49歳から66歳で生涯を閉じるまでの25年間である。もっとも画家で生計を立てるのは容易なことではなく、第二の人生はカンバスや絵の具代の支払いにも困るほどの貧しさの中にあった。それでも、描き続け、誰でも出展できる無審査のアンデパンダン展に作品を出しつづけた。
▼ルソーの描き方は滑稽なほど律儀だったと伝えられている。人物を描くとき、たいていは人物を正対させ、その身体のサイズやバランスをいちいち物差しで計ってカンバスに向かう。美術学校で本格的に学んでいないルソーの方法はまったくの自己流であった。アンデパンダン展に出展されるルソーの絵は、単純で幼稚、遠近感もない、と最初は嘲笑され、見向きもされなかった。それでも描き続けるルソーの様子を想像するだけで、我々は勇気を与えられる。やがて人々はその絵の色づかいの美しさ、律儀さ、そしていごこちのいい素朴さを発見する。
▼同じ時代を生きたゴーギャン(1848ー1903)は「地上の楽園」を求めてパリを捨てタヒチにわたった。一方で、ルソーはパリの風景にこだわりながらその中から「楽園」をあぶり出した。「別に異国の地に行かなくてもいいじゃないか。足元の風景の中にも楽園はあるもんさ。」そう言いながら、毎日、キャンバスを抱えてセーヌ川に向かう姿が浮かぶようだ。別に他者との比較の中に自分を置かない、気負いのない人生観が、周りの人々を惹き付けていった。とりわけ、本場パリに修行に来ていた日本人画家にとっては、彼の画風や生き様はオアシスであったにちがいない。
▼ルソーの暮らすボロアパートは「洗濯船」と呼ばれ、さまざまな画家や詩人がいつも訪れた。このルソー展には「洗濯船」の常連だった素朴派の画家たちの作品も並べられた。皆、職業を持ちながら絵を描き続けた。農夫、サーカスのレスラー、工事人などを転々としたカミ−ユ・ボンボワ、園芸家の家に生まれ田舎暮らしにこだわったアンドレ・ボーシャン、家政婦だったセラフイーヌ・ルイ、郵便配達人として勤め上げた後、絵に没頭したルイ・ブイブイアン・・・・・みな、自分の楽しみのために身のまわりのものを描いた。それが「素朴派」と呼ばれる所以である。
▼展覧会の目玉は、ルソーが亡くなる直前に仕上げた「熱帯風景、オレンジの森の猿たち」であろう。ゴーギャンがタヒチに住みつき熱帯の楽園を描き上げようとしたのに対し、ルソーはパリ植物園に通い続け、温室の植物をスケッチした。そして、その熱帯の森の中に愛読の「野獣図鑑」の中に掲載されている4匹の猿を引っぱり出し配した。こうしてパリのアトリエで描き上げた「熱帯風景」に愛着を覚える。
手前味噌だが、山や渓谷に行かずとも、ビルの谷間にも大自然はあるものだ、そう粋がりながら道端や団地の草木を「メモに撮っている。」 その趣味の出発点の一つにこのルソーの作品がある。ゴーギャンは熱帯の森の中に住みながら、植物などの自然にあまり眼を凝らさずに、そこに住む人間の姿を描き続けた。ルソーの「熱帯風景」には人間はいない。丹念にスケッチされた4種類の植物と4匹の猿、オレンジの実が均等に主役である。そこにルソーの律儀で謙虚な世界観が凝縮されているように思う。
▼興味深かったのは、「熱帯風景」を制作中のアトリエでのルソーのスナップ写真が紹介されていたことだ。亡くなる直前、最後の作品を前にルソーを撮影したのはピカソ(1881ー1973)だった。ピカソもまたボロアパート「洗濯船」の常連だった。その何気ない表情にルソーと青年ピカソの間のゆったりした空気を感じ取れる。ピカソもルソーに「無理しなくていいんだよ。」と肩をもみほぐされ無垢を取り戻した一人なのだろう。スナップを撮った後、ピカソは、もう一回、シャッターを切った。その写真は、二重露出になっている。大作「熱帯風景」の中にルソーが溶け込んでいる。
ピカソの「瞬間の意図」を想像するのは楽しい。
▼秋の光が丘団地、駐車場横の樹に花梨の実がぶら下がっている。「熱帯風景」を思い出しながらシャッターを切ろう。そして、その写真の横に、アンリ・ルソー展の図録から拾ったこんなエピソードを書き添えておこう。
◇ アンリ・ルソーは、1910年9月4日 <アンデパンダン展>の会長ポール・シニャック、ロベール・ドローネーらわずか7名に送られて、パリ郊外バニューの共同墓地の貧者の墓に埋葬された。
1911年4月、<第27回アンデパンダン展>はルソーを偲んで一室を提供。この年、ドローネとクブアルが資金集めに奔走し、ルソーの遺骨は同墓地の30期限付きの墓地に移される。この時、詩人のアポリネールが墓石にチョークで碑銘の詩を書く。
「心優しいルソーよ、聞いている
かい、きみに会いに来たんだよ。ドローネーと彼の奥さんとク
ブアルと僕だ。ぼくたちの荷物を免税で天の門まで運んでくれ。きみに絵筆と絵の具と画布を持ってきたんだ。きみがかつてぼくの肖像を描いたように、真の光のなかで神聖なきみの閑暇を絵に
描くことにあてられるようにと。」
1913年、この墓碑銘は彫刻家ブランクーシと画家オルテイス・デ・サラーテによって、詩人の筆跡のままに石に刻まれた。
(参考:図説「アンリ・ルソーと素朴派、ルソーに魅せられた日本人美術家たち」)
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