わかっちゃいるけどやめられない
       2006年12月21日 






















▼「メタボリック症候群」というやっかいな新語が流行語になってしまったもんだ。これまで不健康な生活を自負さえしていた先輩や友人達が万歩計を片手にウオーキングをはじめ、食事を制限し、なんとか内臓脂肪を減らすんだ、と宣言する。そんな似たり寄ったりの決意表明を聞きながら、彼等が眼の前にいる私の醜悪な肥満体を見て、一抹の安堵感と優越感に浸るのを感じ取るのはいい気持ちではない。「よーし、では私も・・・」という気持ちにいかないのが私のどうしようもないところである。どこかでなにかが弛緩している。その間隙を縫って、私の中の脂肪細胞達はのびのびとその領土をひろげていく・・・・。
▼とは、言っても、ここ数週間、私も夕食は早めに麺類を中心に軽いものですませ酒も控え、1日1万歩以上は歩くようにしている。そんな中で、昨夜は久しぶりに先輩と食事をする機会があった。蕎麦屋での落ち着いた会合だったが、先輩の気配りあふれる謙虚な話を聞いていると、元気が出て、酒がすすんだ。先輩と別れ、同僚のA君と「もう一件行くか」という話になり、梯子酒となった。考えてみると、A君と酒を酌み交わすのは久しぶりである。彼の誠実な人柄が酌み交わすごとにトクトクと伝わってくる。ああ、いい時間が流れていく。

「ちょいと一杯のつもりで飲んでいつのまにやらはしご酒、気がつきゃホームのベンチでごろり これじゃ 身体にいいわけないね わかっちゃいるけどやめられない」
 植木等が歌い高度成長期の日本で大ヒットした「スーダラ節」を作詞した青島幸雄氏が亡くなった。その夜、私は、スーダラ節そのものにふらふらと夜の街を歩いている。青島氏の娘さんが会見で言う。「最後まで言いたいことを言って、好きなことやって、苦しむこともなく、逝きました。」息子さんが言う。「昨夜、親父は気分が良さそうで、『ビールでも飲むか。』と言い出した。病室だから無理だよ、と笑ったんですよ。」 それを聞きながら、微笑ましく安らかな旅立ちでよかったなあ、と思う。
▼青島氏はテレビの草創期を独創的に駆けた先駆者だ。民放開局と同時に初のバラエティ「大人の漫画」、さらに「シャボン玉ホリデー」の放送作家をこなした。「シャボン玉ホリデー」のコントに夢中になったのは小学生の頃だが、今でもザ・ピーナツの「おとうさん、おかゆが出来たわよ」「いつもすなまいなあ。」というコントや、青島自らが登場しての「青島だあ〜」谷啓の「がちょーん」
エンディングにザ・ピーナッツがハナ肇にかわす肘鉄砲の場面はすぐに思い出せる。おそらく同世代の大人は皆そうではないか。その台本のほとんどを青島氏がてがけていた。
▼当時のパロディやコントには志や哲学があった。放送作家らがとらえた世相や時代感をメッセージとして伝えようとする気概があった。「がちょーん」「およびでない、およびでない、こりゃまった失礼しました」「はらほれひれはれ」・・・・というオチは、型にはまった日常や常識をぶち壊したいという主張があった。最近の高視聴率バラエテイ番組は、ごく自然の会話を満喫はでき楽であるが、笑いのほとんどが仲間内の心地いい空間の中で、人のいい仲間をからかい、笑いの種にするものばかりである。なんとも皮相的なものに見える。

▼青島氏の放送作家としての真骨頂は、スーダラ節を皮切りに「俺はこの世でいちばん無責任といわれた男」というフレーズを送り出し「無責任時代」を演出したことであろう。高度成長を突っ走る戦後日本の企業社会はあのままつきすすめば戦前の軍隊社会のように殺伐とした規律の中で男たちを摩滅させたであろう。この時、青島氏が市民権を確立した「無責任男」はそんな画一社会に風穴を開けた。「そんなに上司に気を使ってどうする?もっと自由に自分らしく生きようよ。思っていることはなんでも言ってもいいんだよ。」それは皆が心の中に思っていたことで、青島氏は肩を揉むように皆を楽にさせてくれたのだ。青島氏が演じる「意地悪ばあさん」、これは老人達の逆襲だ。「年寄りは社会の片隅にいればいいんだ。」と年寄りを過去の人として捨象する社会への明確な抵抗であった。

▼青島氏が一番好きな言葉だというのが「座して半畳、寝て一畳」。亡くなる二週間前に出版された「ちょっとまった!青島だァ」(岩波書店)の中で自らこう記している。「どんなに金を稼いだところで、人間の図体がでかくなるわけじゃない。どんなに金持ちになったからって、座るスペースは半畳と決まってて、どんなに大きく広々と寝てやろうと思ったって、一畳しか使えねえんだから、人間そんなに欲をかいたってしょうがねえってことだ。」
▼青島氏と同世代の日本人は腹が据わっていた。戦争を体験した彼等はまったくの焼け野から這い上がり、良い悪いは別にして、それぞれが独創的に生きた。それにあこがれひたすら追いていったのが団塊の世代だ。彼等は青島氏ら前を行く世代にとっては「可愛い弟」ではあったが、振り返ると、独創的なことはなにもしなかった。「兄」から与えられたものを要領よくこなしていく「可愛い弟」の域を結局のところでることはなかった。その団塊の世代の数の力の下で「使い走り」に甘んじてきたのが我々の世代だ。この世代も腹が据わっていない。よって、構想力豊かな新しい日本を築くには、早く企業社会の主役を40歳代以下に譲ることだと思う。50歳代以上は再び現場に戻り、職人として、技術を社会に還元する名脇役として人生を全うするのがいい。

▼青島氏追悼の「梯子酒」の次の朝、体重計に乗ると再び、元に戻っていた。今宵も忘年会だ。その翌日も・・・・。再び、メタボリックシンドロームのまっただ中に飛び込んでいく我が肉体、帰ったら公園をウオーキングする気力はおそらく沸いてこないだろう。それどころか、夜が明けるまでこうしてパソコンに向かい、訳の分からぬ言葉を打ち続ける。朝は公園に行くまではいいが、寝そべって落ち葉や枯れ葉に意味もなくレンズを向ける。テキパキと脂肪を燃焼させることはなにもしない。蓄積した脂肪の海に押しつけられた内蔵は悲鳴をあげているにちがいないのに、「なんとか微妙なバランスの中で自分は生きていける」ことに、とりあえず、している。

▼亡くなる前の日、見舞いに来た息子さんに、「ビール飲もうか。」と言った瀕死の青島氏の表情を想像する。
あの、ちょっとハニカミがちの笑顔で話しかけてくれたにちがいない。
                  合掌。

2006年12月21日