タイムスリップ 〜16世紀で止まった街へ〜

        2007年1月11日

 


 ←トレド
   (スペイン)










▼「留学中の息子が心配になって」という口実ができたのを幸いに、格安チケットを手に入れ思い切って旅に出た。1週間余りの旅だが、これを勤続30年になる自分への慰労と妻への償いとすることにし、勝手な親は息子に学校を休ませて行きたいところを案内させる。

「トレドは16世紀で止まった町である。」と言ったのは誰だったか、息子を先頭に迷路のような石畳の路地を歩き回っていると、ふと時間がまるで万華鏡のように錯綜する不思議な感覚に襲われる。













 おそらく中世からそこにあるであろう無数の石館には、さまざまな天子や神々がさりげなく彫り刻まれている。異文化の常軌をはずれた交錯がこの狭い街に凝縮されている。その複雑怪奇な回路図の中を、唐突にやってきたジャポネの親子が彷徨い歩く。


▼トレドは、新カスティリア高原の真ん中、岩の塊の上にできた古都である。都のまわりをタホ川が深い渓谷を刻みながら取り囲んでいる。かつて6世紀に西ゴート王国の首府に選ばれて以来、この皇居とほぼ同じ広さの高台の街がイベリア半島の中心となってきた。

▼1300年前、タホ川で水浴びをしていた娘を西ゴート王が手込めにした。これに怒った娘の父が復讐を考え、当時スペイン征服の機を窺っていたイスラム勢力に助太刀を求めた。イスラム教徒軍は一気にトレドを攻め落とし、カトリック教徒の国、西ゴート王国は滅び去ったという。              
▼8世紀から11世紀にかけてトレドをそしてスペインを支配したイスラムについて、確認しておきたいことがあった。堀田善衛氏がその名著「ゴヤ」の中で示した次の文章である。今回の旅は、それを自分で体感する絶好の機会だと思い、重い腰を上げた。少し長くなるがその文章を引用する。

「ところで、このアラブ・イスラム時代のスペインについて、であるが、イスラム教というものについても、われわれには一つの先入観がこびりついているように思われる。
 それは、いわゆる片手にコーラン、片手に剣という言い方に象徴される不寛容さについてである。
 しかし、この不寛容さ、あるいは好戦性は、少なくともスペインに入ったイスラムに関する限り、ある時期を限って言えば、これは誤りである。モサベラと称される、イスラム王朝下にあったキリスト教徒が迫害をうけたことはあったにはあったが。
 スペインのイスラム王朝には武断専制の風はなかった、彼らはローマの遺産を破壊しなかったように、教会を攻撃することもなく、西ゴート族のように掠奪や放火、破壊を事とすることもなかった。
 そればかりではなく、たとえばコルドバのウマイア・カリフ王国は、はじめは聖ビサンテ教会と平和裡に交渉をして、この教会の建物の半分ほどを買い取って、そこで彼らの礼拝を行ったというのが歴史を象徴するかのように、まず第一にローマ人によってヤーヌスの神殿として建てられ、その遺跡に、後期ローマとビザンチン様式で建てられたものであった。ここで40年間ものあいだ、常識的には二つの相容れぬ宗教とされていたものが、平和裡に共存していた。すなわち、聖書とコーランは、同じ建物を共用していたのである。
 その後の歴史が示すように、このような共存共用は人類の歴史でもまことに稀な例と言うべきものであろう。そうして現在ある、しかも現在も、メスキータ(回教寺院)と呼ばれているカトリックの大聖堂は、モーロ人支配層が追い払われての後に、もう一度念の入ったことに、新たに真ん中をくりぬいてカトリック教会を作り込んだものである。
 しかも、新たにキリスト教会を作り込むについて、イスラムが作った天井の低い、柱の森と称されるイスラム建造物の破壊は、まず最小限であったろうと思われる。
↓コルドバ大聖堂(資料)
 私は、このコルドバの回教寺院転用のカトリック大聖堂を訪れるごとに、大袈裟なことを言うと言われることを覚悟の上で敢えて言うとすれば、そこに何かしら全人類規模とでも言いたくなる感慨を持つ。というのは、この天井が低く薄暗い柱の森は、キリスト教のそれのように側壁にはほとんど何の装飾もなく、ひたすら水平にメッカの方向をめざすものであり、その後に作り込まれた教会堂は、これはまた垂直に、天を仰ぐ形になっているからである。メッカをのぞむ水平方向の信仰と天を仰ぐ垂直信仰とが、ここだけで共存していたのである。
 イスラム教徒がこの会堂の外に作ったオレンジの樹の中庭は、実は会堂内の柱の森と対になるものであり、中庭にある泉は身体のけがれを洗うためのものであった。それはイスラム教というものがもつ、肉体と精神との、あるいは外的世界と内的世界との実に見事な調和を、ほとんど詩的なまでの調和を表現しきっていたと言ってよいであろう。
 内なる柱の森と、外なるオレンジの森は、この宗教がきびしさと同時に、ほとんど甘美なまでの要素をもそなえていたことを思わせるのである。
 
 またイスラム王朝は、ユダヤ教徒に対しても差別しなかった。むしろ彼らを重用したのであった。
 だから、イスラムのスペインにあって、キリスト教徒から自発的にイスラムに改宗した人もいれば、両者の通婚も自由であった。こうして時代がうつって行くと、イスラム教徒もキリスト教徒も次第に、スペイン人としてのアイデンティティをもつようになり、両者ともに近代スペイン語の先祖であるロマンス語とアラビア語の二カ国語を話すようになり、これが複合し熟成して行って、、語彙の10パーセントがアラビア語源、あるいはそれとの複合語である現行スペイン語が出来ていったのである。イスラム教徒は如何なる意味でも“外敵”ではなかった。
↓アルハンブラ宮殿(資料)
 時間的にはそう長くはなかったといえ、イスラムとキリスト教との併存の、豊かな文明的状況がそこにあった。イスラム教徒は、たとえばグラナダのアルハンブラ宮殿に典型的に見られるように、水を扱うことにかけてはまことに天才的な技術者であった。バレンシアに見られる見事な灌漑システムをもったオレンジの果実のための農園は、アラブの遺産であった。
 だから、8世紀にわたる、北方に残存したキリスト教徒の南征、国土回復(レコンキスタ)と呼ばれる侵攻は、実はこの豊かなイスラム領地に対する、スペイン人同士のあいだでの、植民地主義的な侵攻であったと見る歴史学者もいるほどなのである。
 コルドバでもグラナダでもサラゴーサでも、イスラム王朝は何度も言うようにキリスト教徒に強制的に改宗を迫るようなことはなく、人頭税をさえ払ってくれればよいとしていた。事実、多くのスペイン人キリスト教徒が信仰はそのままで様々な役職に登用され、5000人もいた宮廷の守護兵はキリスト教徒の軍司令官の下に統率されていたのである。
 彼らはみな、イスラム教徒もキリスト教徒もユダヤ教徒も、スペイン人になっていった。
 もとよりイスラム教徒のなかに、莫迦で乱暴な指導者もいた。逆植民地主義的に国家統一をはかろうとした者もいたのである。
 そうしてコルドバ、セビーリア、トレドは、ヨーロッパにおける初期ルネッサンスの、学問の中心であった。ヨーロッパの学者たちは、まずここでアラブ語に訳されたギリシャの哲学、科学などの諸学問を学んだのである。それらのアラブ語文献をラテン語に重訳することにはげんだのであった。ヨーロッパ文明の根幹をなすいくつかの説話、たとえばゲーテの「フアウスト」。シャイクスピアの「じゃじゃ馬ならし」、アンゼルセンの「裸の王様」などの原型は、すべてペルシャ、アラブから出てスペイン経由でヨーロッパに入ったものであった。                             コルドバ、セビーリア、トレドは、全ヨーロッパにとっての、いわば徳川期の我が国にとっての長崎のようなものであった。ルネサンスはまずアラブ経由でヨーロッパにもたらされたものであった。そうしてこの仲介にあたって文化的大役を果たしたものが、スピノザの祖先がそうであったように、主としてスペイン・ユダヤ人であったということは、特筆しておかなければならぬ事実であった。イスラム・アラブ、キリスト教徒、ユダヤ教徒の三者の、この平和な協力共存は、今日から考えてみても、何か夢のようなものとして見えて来るのである。」   堀田善衛著「ゴヤT スペイン・光と影」

▼細い路地の向こうの工房をさがした。かつてイスラム教徒が持ち込んだ工芸、ダマスキナードの工房だ。遠くシリアのダマスカスに起源をもつことからこの名称がでてきたという。
店先で、ベテラン職人がその技を見せてくれた。鉄の上の絵柄に金銀の糸を埋め込んでいく。若い職人を並べ、丁寧に指導する店先もあった。イスラムから持ち込まれた技術が、この地で着実に成熟し今なお継承されているのを確認する。








▼ダマスキナード細工で、ぜひとも手に入れたい模様があった。何軒かまわり、それを手に入れることができた。ユダヤとイスラム、そしてキリストが同居するペンダントヘッド。いつ頃考案されたのだろうか。いずれにしても、このデザインは一つの象徴として解釈しよう。イベリア半島には北から南、そして西方から様々な民族が押し寄せ通り過ぎていった。そのめまぐるしい交錯の中で、あらゆる文化や宗教さえもが渦のようにもつれ合い溶け込んでいった。その錯綜のなかに共存があり共生があった。イスラムの技術力、ユダヤの経済力、キリスト教の軍事力…・・・トレドの発展は異民族が絡まり合うことで達成された。
あえて混沌を呑み込んだ古都トレドの寛容、その象徴として、このペンダントヘッドを土産に4つ買った。

2007年1月11日