異邦人の住処 〜16世紀で止まった街で〜
2007年1月12日
←トレド大聖堂
ステンドグラス (スペイン)
▼11世紀、キリスト教徒の勢力回復に伴って、スペインは
300年にわたる回教徒支配から奪回された。以来、トレドはカスティーリア王国、その後のスペイン王国の首都となる。カスティーリア王国の国王は異教徒に寛大だったイスラムの方針を引き継いだ。12世紀から13世紀にかけてトレドはキリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒、合わせて3万人が共存し繁栄した。(現在は1万人が暮らす)
▼トレドの街の中心、キリスト教大聖堂を訪ねる。カトリックの総本山として1226年に着工され完成まで270年の歳月が費やされた。モスクの上に作られたので要所要所にイスラムの風情を残している。
▼全面金箔で装飾された中央祭壇、新大陸から持ち込まれた金銀が湯水のごとく使われた。イスラム独特の幾何学模様が配置された天井、豪華絢爛なパイプオルガン・・・・目を見張る聖堂内の様子を紹介したかったが、フラッシュ撮影を禁じられていたためピンぼけだらけで、うまく記録できなかった。
▼この荘厳な聖堂の奧に、今回の旅でぜひとも目に焼き付けておきたい絵画があった。エル・グレコの「聖衣剥奪」、283×173cmの大作である。新約聖書からキリストが十字架にかけられる直前、衣服を剥がれる姿を描いたものだ。外套の朱色がとても1577年もの昔に描き込まれたとは思えないほどの鮮度を保っている。そしてその大胆な筆のタッチは実際にみると想像以上に挑戦的で躍動している。
▼エル・グレコがトレドでこの絵を描きあげた1577〜79年、あの寛容なトレドの様相は大きく変貌していた。
14世紀、15世紀とスペインは世界に冠たる大帝国となったいったが、それとともに寛容さを失っていた。異教徒迫害や追放が制度化され、帝国はカトリック教徒の砦との意識に固くし、北方からの宗教改革の嵐、東方からのトルコの脅威に対峙していた。そして、1561年、時のスペイン国王のフェリペ2世は都をトレドからマドリッドに移す。
▼エル・グレゴとはスペイン語で「ギリシャの人」という意味である。その名の通り、エル・グレゴは地中海からやってきた異邦人である。1541年、ギリシャ・地中海に浮かぶクレタ島に生まれた。青年期まで、クノッソス宮殿のある島の中心地カンディアに住んでいた。年少の頃からギリシャ正教の修道士の手ほどきを受け、イコン画(ギリシャ正教やロシア正教で用いられる聖像画)を学んでいたという。
▼当時、クレタ島は東方から押し寄せるトルコ人の脅威に晒されていた。コンスタンティノーブルをおとし、ビザンティン帝国を倒したトルコ人がいつ来襲しても不思議ではなかった。港の入り口には防衛のための城塞が築かれていた。
▼20歳の頃、エル・グレゴ(=本名ドメニコス・テオトコプロス)は画業を極めるためにイタリア・ベネティアにわたる。ここでイコン画とはまったくことなった画風に出会う。当時のイタリアはルネッサンス末期にあった。古典古代の文芸復興運動は、14世紀から興りイタリアがその先駆的存在となったが、16世紀の終わりのベネティアではそこからの離脱が潮流となっていた。均斉のとれた理想的な形態を追い求める古典主義に代わり、ダイナミックな動き、瞬時に興る非日常の極限態を猛々しく描き上げる、マニエリスムが勢いを帯びていた。この期のベネチアに居あわせたグレコは明らかにその影響を受けた。
▼1569年、グレコはローマに渡り、ミケランジェロの「最後の晩餐」と並ぶものを自分も描く、という明確な野望を掲げていた。そして1577年、グレコはマドリッドにいた。
▼1561年に都をトレドからマドリッドに移したスペイン国王のフェリペ2世は、郊外に大宮殿を造営中だった。史上最大の帝国の映画栄華と敬虔なカトリック信奉を世に示す大建造物をめざし各地から多数の芸術家を招いた。エル・グレコも、スペイン王国の宮廷画家になる野心を持ちマドリッドにやってきて積極的に求職活動をした。
▼しかし、斬新なグレコの画風を受け入れる度量は、当時のスペイン王にはなかった。前に述べたように、当時、欧州では宗教改革によりプロテスタントが台頭し、それまで一枚岩であったキリスト教世界が分裂の危機にあった。スペイン王はカトリックの雄として、カトリックの伝統的教義を厳格に遵守する方針を固めていた。王は「聖像に関する教令」を出し、宗教美術は教義的な誤りを犯してはならず淫らなものであってはならない、という方針を出した。グレコの斬新な画風はこれに真っ向からぶつかった。
▼決定的だったのが、グレコが初めてフェリペ2世に依頼され、描き上げた大祭壇画「聖マウリティウスの殉教」(エル・エスコリアル修道院)だった。紀元前3世紀、デーべ地方に駐在していた、隊長聖マウリティウスを始めとするキリスト教徒兵士1万1千人が、あらゆる異教徒の儀式に参加することを拒絶したために、皇帝の命によって虐殺された場面を描いたものだ。しかし国王は出来上がった作品を見て、「こんな場面の絵が祭壇にあったのでは祈る気がそがれる」とし認めなかった。そして、これに反発したグレコは以後、宮廷への出入りが禁ぜられた。(この「聖マウリティウスの殉教」はグレコ最大傑作の一つとして後世に伝えられている。)
▼同じ時期、グレコはもう一つの大作に取り組んでいた。それが、カトリックの総本山、トレド大聖堂の祭壇画「聖衣剥奪」である。トレド大聖堂は、富と権力と高位聖職者の数でローマのサン・ピエトロ大聖堂と並ぶと言われていた。グレコは「聖衣剥奪」の制作に2年の歳月をかけた。
▼しかし、この作品も完成後、物議をかもした。大聖堂側が絵の報酬は支払えないと通達してきたのだ。それは二つの理由からだった。一つは、キリストの頭より群衆の位置が高く描かれており、これはキリストを冒涜するものである。
もう一つは、一つの絵の中にマリアが三人も登場している。聖母マリアは一人が原則である・・・・という理由からだった。
大聖堂は書き直しを求めたが、グレコは応じず裁判となる。結局、大聖堂側から異端審問にかけると持ち出され、グレコは調停案を受け入れ、報酬は提示していた額の三分の一とされた。
▼グレコはスペインに来るやいなや、宮廷画家になるという意に全く反して、帝国と教会という二つの権威と対峙することになった。二つの大きな挫折を抱え込んだグレコはあの紺碧の海に囲まれた故郷クレタ島に帰ってもいいものだが、グレコはそれをせずそのままこの古都トレドに住みついた。なぜか?おそらく、その頃のトレドは都の座をマドリッドにあけ渡したといっても、まだ、街の至る所に、あの寛容の精神が息づいていたのではないか。あらゆる異文化を呑み込んでしまう寛容が市民生活の中に脈々と息づいていた。国家や教会という大きな権威は、異教を徹底して排除する方向に大きく舵を切った。しかし、その大転回の中にあっても、市民はしたたかにこの古都が築き上げた寛容の精神を引き継いでいたのではないか。グレコは、この市民の精神に、ある種の安心と確信を持って、住みついた、という理屈は浅薄だろうか。
▼トレドの街の迷路を彷徨い、ユダヤ人居住地の路地を抜けたところに、ムデハル様式の教会が現れた。ムデハルとはアラビア語の「ムダッジャン」がスペイン語になったもの。ムデハル再びとは、「キリスト教に支配されることになった後もその信仰、法や習慣を保持しながらイベリア半島に居残ったイスラム教徒」を指す。彼らは次第に同化して、その高度な文化、学問、技術はスペイン、ヨーロッパ諸国へと伝えられた。イスラムの伝統を伝えるムデハルの建築様式も、その後のキリスト教建築の中に継承された。
▼この典型的なムデハル様式の塔を持つ教会、サント・トメ教会にあるエル・グレコの傑作「オルガス伯爵の埋葬」を見に行く。
▼グレコは決して権力に刃向かおうとしたのではない。ただ、それまでの表現を越え、独創的な画風を追究したいと願ったのだ。その思いは大きな権力には理解されなかったが、トレドの市民にはグレコの絵を素直に受け入れた。街に住みついたグレコのもとには街に無数にある小さな教会や修道院から次々と注文が寄せられた。トレドの住民となって10年後、この小さな教会のためにグレコが描いた絵画にはそうした市民への感謝がこめられている。グレコの家はこのサント・トメ教会のすぐ近くにあった。
▼オルガス伯爵は、14世紀、荒れ果てていたサント・トメ教会を再建に尽力した実在の市民だ。彼が亡くなり市民や仲間に囲まれながら昇天する様を独特のタッチで描きだした。
▼黄金の衣装を着た聖人が、オルガス伯爵を抱きかかえ、墓におろそうとしている。まわりには、葬儀に立ち会う市民がいる。グレコはここに自分を支えてくれた友人や有力者(パトロン)たちの姿を描き込んだ。そしてその中にグレコ自身も描き入れた。傷ついた自分を支え、自分の作品を芸術として素直に受け入れてくれたトレドの市民達である。異邦人・エル・グレコは、この作品を通してトレドの寛容への謝意を示したのだ。
▼時間の都合で残念ながら見学できなかったが、トレドにはもう一つ、今度再訪する機会があればぜひとも見ておきたい作品がある。
町はずれのターベラ病院に飾られている「聖家族と聖アンナ」。グレコはトレドの街で妻をめとり二人の間には息子が生まれた。この「聖家族=サグラダ フアミリア」はグレコ一家を描いたものだという。マリアは自分の妻をモデルにした。イエスは一人息子、そして二人を見守る自分の姿をグレコは描き込んだ。
▼異教徒弾圧という閉塞的な局面にあったスペインに飛び込んだ異邦人の緊張を、辛うじて解きほぐしてくれたのは、家族であり、そして生活者たちの寛容であった。そのことを私も家族とともに確認したかったのだが、ふと時計を見れば、病院がしまる時間になっていた。迂闊であった。
▼「聖家族と聖アンナ」が描かれたのが1595年、トレドに住みついて18年の歳月が流れていた。同じ年、グレコは初めて風景画を描く。「トレド眺望」(メトロポリタン美術館)。その大胆な筆遣いはまさにグレコである。3世紀も後に来る印象派の画風が、すでにこの絵から溢れ出ている。
▼厚い雲に覆われながらも雲間から射す光に反応して浮かびあがるトレドの街と、それを囲む深緑の美しさ。グレコはこの陸の中の孤島に、故郷クレタ島の情景が重ねあわせていたのではないか。遙か彼方の昔、ギリシャ文明の栄華をきわめ今は静かに眠るクレタ島、島の周囲には外敵の侵攻を防ぐための城壁が張り巡らされ、エーゲの紺碧の海を閉ざした古都クレタ、その原風景と、深い緑の海の中にポッカリと浮かびあがる古都トレド。ギリシャの人=エル・グレコは、この終の住処に、故郷の幻影を求め続けた異邦人であったのだろう。
▼蛇足だが、トレドの街を最初に訪れた日本人は天正遣欧使節の4人の少年である。1584年の9月29日にトレドに到着し10月19日までの21日間滞在している。その間、タホ川から水を汲み上げる仕掛けや天球儀などを見学し、10月7日にはトレド大聖堂でのミサにも参列している。
▼少年達が訪れたこの時、街にはエル・グレコが暮らしていた。街のあちこちの教会には彼の祭壇衝立画が飾られており、少年達はその絵と対面していたに違いない。ひょっとしたら、迷路のような石畳の路地で、エル・グレコとすれ違っていたかもしれない。エーゲ海よりさらに遙か彼方の東方からやってきた少年達に、エル・グレコは、微笑みながら話しかけてきたのかもしれない。そんな妄想を過ぎらせながら、フラフラと16世紀の路地裏を彷徨うのは実に愉快だ。
引用や参考にした資料
「巨匠たちのスペイン」
(神吉敬三:毎日新聞社)
「地中海の誘惑」
(樺山紘一:TBSブリタニカ)
「地球の歩き方」
(ダイヤモンド社)
「NHK探検ロマン世界遺産」
(NHK出版)
「NHK世界美術館紀行 エル・グレコ 聖なる都の異邦人」
「スペイン 日本大使館ホームページ」
「ホームページ エル・グレコ」
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